痛みの感情は、心身全体での反応

2021年12月14日 | 苦痛の価値論
2-3-3-1. 痛みの感情は、心身全体での反応 
 感覚としての痛みは、損傷の部位、傷んだところに位置して感じられる。足が傷んで、足が痛いと感じる。だが、感情は、身体の部位に感じるものではなく、足の感覚的な痛みを踏まえて、私が、この個我主体の私が、痛いと感じる。感情は、生主体の能動的反応であり、痛みの感情は、能動的に萎縮や緊張、焦燥・抑鬱等の反応をとる。足に感覚的に痛みを感じるからといっても、足が萎縮・焦燥をするのではなく、心身全体をもって感情としては反応する。ただし、痛み感覚が大きければ、その部位にと痛みの感情も引き寄せられ、その部位あたりに感じることはありそうである。
 これは、快感情でも同じことである。好ましい感覚を受動的に感じとって、これに生主体が心身全体をもって快の感情反応をする。口に甘いものを感覚しても、即おいしいという快楽にはならない。それがのどを通過して確かにわがものになったことをのどで感受して、これに快楽の、心身全体をもっての感情反応をして、甘くておいしいと感じることになる。おいしさの快楽は、心身全体で反応し感じとるが、その味覚を踏まえて生じるものとして、その部位(味覚)に重ねて感じる。同じように、下半身の放尿、射精あるいは排便では、その部位に近づけて(その感覚を踏まえこれに引かれ)、それぞれ下半身に快楽を感じる傾向がある。特に放尿・排便の場合は、先立つ痛みがあって、その部位の痛みからの解放感が快の中心で、痛みを感じる下半身の部位に快感は強く結ばれることになる(もちろん、放尿をぎりぎり我慢していた後の大きな快楽感情など、全身に弛緩を感じるし、顔面に法悦の表情を自覚もする)。
 逆の苦痛の場合、切実なこととして、痛み感覚に、より密接に重ねてその痛み感情を感じることになる。ひとの意識は、ひとつのことを意識するのが通常で、感覚と感情は別であっても、強い感覚刺激が持続して、その感情が別に生じても、これをはじめの意識の感覚の場に重ねて感じることになりやすい。痛みの感覚が足に生じていることを意識するときには、同時に、これを回避したいという感情ももち、その感覚とその感情はひとつの痛みとなって、したがって足の痛みなら、足に意識をもっての感覚・感情となる。ただし、少し反省的に見れば、足の損傷とその痛みだとしても、痛みの感情としての萎縮は足ではなく心身全体が緊張萎縮していると自覚できるし、足の痛みに感情的に反応して涙を出すときは、足に出すのではなく目に出していることを自覚はする。