同じことでも、耐えがたく思う者も、楽しいと思う者もいる 

2018年10月12日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2. 忍耐は、何を対象とし、どう働くのか-辛苦の甘受-
2-1. 忍耐の範囲は、決めにくい
2-1-1. 同じことでも、耐えがたく思う者も、楽しいと思う者もいる 
 同じ虫の音を、心地よく感じる民族があるし、不快な騒音と捉える人たちもいる。現代音楽は、これに慣れた者には心地よい音楽であるが、そうでない者には、不快な騒音である。心地よく思う者は、それらの音にやすらぎ、あるいは躍動感をいだくことになろうが、不快と感じている者には、それを聞くことが強制されるとなると、苦痛で、これには我慢・忍耐が必要となる。
 同一の掃除の仕事でも、これを有意義と捉えてボランティアで率先してやるのなら楽しいことだが、無意味な奉仕活動と思っている者だと、ボランティアと肩を並べてごみ拾いをしていても、腹立たしく耐え難いものになる。同じ汗を流す仕事であっても、そのひとがどうこれを価値づけているかで、苦痛になることもあれば、楽しみとなることもある。楽しみなのであれば、少々のことならば不快となることはなく我慢・辛抱などの言葉も出てくることはない。だが、苦痛と感じるのであれば、それを続けることは、辛抱がいることであり、忍耐すべきものとなる。
 忍耐は、不快・辛苦にするが、同じ客観的な事柄に発するものであっても、個人によってそれが不快とも快ともなるのであれば、忍耐になるものかどうかは、当人に聞いてみなくては分からないこととなる。よかれと思ってしたことでも、当人に快でなく不快をもたらしているのだとしたら、これをすすめるほどに、大きな忍耐を強いるのである。各人で快不快の感じ方は相当に異なるから、その忍耐も個人によって異なってくる。それが苦になり忍耐になるかどうかは、当人しだいということになりそうである。