苦痛の甘受でひとは向上し、快楽で停滞する

2018年08月03日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-2-1. 苦痛の甘受でひとは向上し、快楽で停滞する
 忍耐は、苦痛の犠牲を手段として価値ある目的を成就したり、苦痛に慣れて何でもないことになるようにとその生を広げていく。あるいは、欲求抑圧の忍耐では、不充足に慣れてくれば、より小さな充足で満足できるようになる。糖分は、控え目でしっかり味わえるようになる。逆に快楽の場合、これに慣れると、快楽でなくなってきて、より大きな快楽でないと間に合わなくなり、その快楽に鈍感になる。したがって、より贅沢なことになっていく。  
 苦痛や欲求不充足を引き受けるのは、その犠牲をもって、これを手段として、大きな価値が獲得できるからである。その獲得されるものは、その苦痛の営為が目的としている価値物のみではない。そういう辛苦に耐える心身の能力自体を高める。訓練とか鍛錬は、これを目的としたものである。苦痛に耐えていると、それを支えるだけの能力が身についてくる。苦痛になるような限界とぶつかることで、それに見合う力を出す必要性が生じ、新規の能力を目覚めさせることとなる。逆に、安楽に慣れると、心身は衰えて劣化していく。
 苦痛は、単に慣れて平気になるにとどまらず、欲するもの・快に変容することもある。勉強とか仕事は、しばしば、苦痛にはじまる。だが、これを続けていると、それは快となっていく。はじめは苦痛で回避したい義務であったものが、やがて快適で求めたい権利にと変わっていく。その快適さを基礎にして、さらに困難なことに挑戦し忍耐することで、ひとは、一層向上していく。