忍耐は、悪用もされる

2017年10月20日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-5. 忍耐は、悪用もされる
 忍耐は、善悪の手前にある。「自由」な忍耐は、悪への自由にもなる。「目的」を目指す忍耐は、悪・犯罪をも目的としうる。銀行の金庫に辛抱して穴をあけるというような悪に使われるし、愚行としかいえないような「骨折り損」を結果することもある。貪欲な経営者に過労死するまで利用される愚かしく悲惨な忍耐もある。
 忍耐の努力は、辛苦の甘受をもってより大きな価値を得ようとするもので、それは、善を目的にするとは限らない。詐欺とか窃盗をする場合、捕まって刑務所に入ることになるかもという不安をいだきつつすることであろう。その不安に負ければ、犯罪行為はやめる。だが、不安に忍耐できる者は、これを実行する。詐欺をするには、電話などで相当の無駄足を踏む覚悟もいることであろう。しかも、話にのせるために相手の暴言にもじっと我慢しなくてはならない。忍耐なくしては詐欺は成功しない。忍耐は、悪にとっても不可欠である。
 軟弱な者の忍耐もある。勇気を出して戦うべきところで、勇気をもてないものが、逃避の手段として忍耐を選ぶ。脅されて泣き寝入りしたり、相手の理不尽な対応を、文句も言えずに我慢する。なさけない忍耐である。忍耐は、すればいいというものではない。そのもたらすものが善であろうと悪であろうと、自分の首を絞めるだけのことであろうとも、苦痛に耐えるなら忍耐である。つらい忍耐のこと、それに踏み切る前に、ことの善悪・是非をしっかりと考えなくてはならない。