楽天的な判断・想像で、恐怖を小さく耐えやすく。

2012年02月02日 | 勇気について
3-3-5.楽天的な判断・想像で、恐怖を小さく耐えやすく。
 勇気は、恐怖への忍耐・我慢を貫くが、我慢大会ではないのだから、恐怖の不快をわざわざにいだき耐え続けることはない。恐怖を小さくしていって、勇気の忍耐も楽々とできるようになる方がいい。さらには、恐怖がゼロになれば、もう勇気自体も不要となる。
 恐怖は危険にするが、その危険との判断は、各主観がおこなう。突発的に出来した危険は、まずは過大に評価されがちである。非日常の危機が突如生じたのであれば、過敏過剰の反応は、生保護・維持を第一とする主体にとっては、好ましい構え方であろう。だが、その恐怖によって適切な対応が妨げられるのであれば、過度に危険と判定している状態を訂正して、あまり恐怖しないようにする方が望ましいこととなる。主観は危険と判断するのだが、それは、主観的なことだから、その心構え如何で、かなり変更できる。注意喚起には危険に注目するだけでいいが、それがすべてと捉えてパニックになるようであれば、危険の面のみに偏らず、チャンスであったり、安全である面をも見て総合的に評定するべきである。危険が見えると、えてして、それのみにとらわれがちとなる。これを抑えて別の肯定的楽天的になれる面にも注目して、過度に危険・恐怖にはまり込まないようにすることが必要となる。
 たとえ危険と判断したとしても、それの現実化する禍いを想像しなければ、恐怖反応もさしてすすまない。指先を怪我して、可能性としては破傷風の危険も皆無ではないからちゃんと消毒をと単に思うだけなら、ほとんど恐怖の生じることはないであろう。だが、妄想たくましく破傷風の症状を想像し死を想像すると恐怖が頭をもたげはじめる。自分の作り出した妄想に、影におびえる。妄想をやめれば、即、恐怖もやむ。戦いにおいては自分の恐怖は知悉しているのに危険をもたらす相手・敵の恐怖心はほとんど知ることがない。せっかく想像するのなら、相手の挙動をふまえてその背後の恐怖心あたりをしっかりと描き出すことへと想像力をまわすべきであろう。戦いで、自分が怖いのなら相手も同じである。その相手の恐怖心を想像すれば、自分の恐怖は忘れがちになり、自分の危険も大したものではないかもと思い直せる。
 危険も恐怖も未来に関わって生じるもので、想像がなくなると、その未来を思わないから、危険・恐怖からも解放される。つまらぬ妄想にとらわれない方法として、現前の現実を見つめるといいと言われることがある。不安や恐怖にとらわれたとき、「目の前の花にその気を移せ」、「月や雲をみてそこへ不安の気を投げ込め」と。舞台に出て「あがる」ようなひとは、指を押さえたりして、おまじないをする。そのおまじないに気をもっていくから、不安・恐怖の想像から気がうばわれ、おまじないには根拠がなくても、効き目はあることとなる。