「恐怖」の遊びは、やはり快感なのだろう。

2011年10月06日 | 勇気について

2-4-6-1.「恐怖」の遊びは、やはり快感なのだろう。
 恐怖は、不快な感情である。できるだけ早くそれを解消して安心に到りたい。だが、恐怖を求めることがある。高所から飛び降りるバンジージャンプや、車体がまっ逆さまに落ちるジェットコースターは、恐怖をもたらすはずだが、遊びとして人気がある。その恐怖は、不快ではないのであろうか。
 恐怖は危険にするもので、禍い生起の前の段階にもつ。不快ではあるが、本格的な不快(禍い)の手前にある感情である。持続する不安や恐怖は耐え難くつらいものだが、一瞬の恐怖は、ひょっとすると味覚での苦味(本来的には不快な味)のように、快感になるものがあるのであろうか。悲しみも、普通は辛く不快な感情だが、哀愁・もの悲しさの類いは、心地よいものになる。
 恐怖は、危険に抱くが、危険は、しばしば、求められる。禍いに出合うのは、いやだけれども、その可能性にとどまる危険は、買ってでも求めることがある。こどもは、危険な塀の上をわざと選らんで歩こうとする。塀から落ちて怪我する禍いを求めることはないが、チャレンジ精神と好奇心にあふれる人間は、危険は、ときに求める。とすると、恐怖ではなく、危険を楽しむのであろうか。だが、確かに恐怖を求める場合がある。「お化け屋敷」には、危険ではなく、恐怖を求めていく。スキーのジャンプ競技より、ジェットコースターの方が人気がある。前者は、危険である。だが、後者は、安全で、大いに恐怖させてくれる。
 恐怖は、危険が無くなれば、消滅していくが、その残像の感じられる間、安心感を生じる。「ホッ」とする快である。安心の快は、安心だけになると感じられなくなる。安心感は、恐怖や不安の解消時に生じるものであり、恐怖あってのものである。緊張が先行して、これを解除できて、弛緩の快、安らぎは、得られる。緊張とその解除の弛緩の展開は、愉快さ・笑いを生じるもとにもなる。緊張が、突如不要となり、弛緩して、どっと笑いの快楽を生じる。絶叫マシンなど、恐怖をもとめることがあるのも、恐怖の緊張とその解除による安心・弛緩の組み合わせで、快感を生じるからであろう。乗っているひとの感情表現からは、恐怖自体は不快で、その後の安堵感が緊張解除が快楽をもたらしているように、うかがえる。
 あるいは、根底に安全・安心があれば、そこでの恐怖は、食べ物のほどよい苦味(本来は不快)の刺激のように、それ自体で快になることがあるのかも知れない。ホラー映画は、安心の茶の間で、仮想世界の刺激的な恐怖を楽しむのであろう。「おにごっこ」では、鬼につかまりそうになってゾクゾクとして、怖いこと自体が楽しかったと、私の身体は記憶している。
 われわれは、冒険が好きで、知は、新奇を求め刺激を求めてやまない。ジェットコースターでは、非日常の世界に瞬時にして入れて、鳥になったかのように空中を落下・上昇し回転までもして、日頃地べたにはいつくばっている者が、天空の異世界をいとも簡単に体感することができる。そして何よりも、恐怖から安堵へという快感を(あるいは、もしかすると安全の中での恐怖自体の快感を)味合えて、おそらく、好きな人には、たまらないものがあるのはないか。