「美味しさ」も「幸福感」も「気持よさ」も、快としては同じだが・・・

2010年07月10日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-5. 「美味しさ」も「幸福感」も「気持よさ」も、快としては同じだが・・・。
 「おいしい」といい、「しあわせ」というが、これらは、快楽系列の感情としては、同じである。だが、いずれも「気持いい」とは言わない。酒に酔っての快感も社会生活の喜び・楽しさなども、「いい気分」「気持いい」という一般的快表現にできる。が、高級な精神の快の代表である「幸福感」になると、「気持いい」では反省的知性が欠如している感じになる。また、ケーキを食べての快は、「おいしい」のであって、これを誰も「気持ちいい」とは感じない。性の快楽やギャンブルに勝っての快は、「気持ちいい」とはいうが、これにケーキと同様の「おいしさ」を感じることはない。
 酒とたばこは、「おいしい」「うまい」といい、かつ「気持ちいい」という。それらが「うまい」のは、口にする点で食に類似したものがあるからであろう。たばこの場合、ニコチンによる痺れ感覚は「うまい」のではなく、「気持ちいい」のだが、口を通していることにおいてか「うまい」ともいう。酒も、「気持ちいい」酩酊について、「うまい」「おいしい」と表現することがある。酒の価格は、口先の「おいしさ」(味覚)で決まるので(肝心の酩酊の快楽はほとんど価格に無関係)、特に高価格の酒を出されたときには、これを賛美することが必要になるのである。
 快楽は、一般的には、「心地よい」「きもちいい」「こころ、よい(快い)」と、こころの好ましさ・良さ(快さ)で表現する。そのうち食の快楽のみは、独自的な「おいしい」をもってする。個体の生命維持にとって食は別格なのであろう。他の快楽なら「きもちいい」と目をつむったりして全身が無防備になる。が、食の場合、のどに由来するこの快楽は全身の反応にはならず、しみじみ味わう特殊場面以外では、目をつむることもない。動物は、生維持のため、警戒しつつも、食欲充足を優先する。ひとの食でも、ほかの領分を快楽反応にまきこまないようにしているのであろう。精神のレベルにいう幸福感は、時に快を随伴するのみで快不快から超越的である点で、「気持ちいい」と一緒にしてもらいたくないといったところであろうか。