損傷がないのに痛むことがある

2021年11月30日 | 苦痛の価値論
2-3-2-2. 損傷がないのに痛むことがある  
 痛みは、傷みを知らせる価値ある感覚である。だが、ときに、誤情報の痛みがある。なくなった腕の痛むことがあるという。幻肢痛という脳内のみでの空回りである。歯痛なども、原因は取り去っても痛みの残ることがある。習慣化した痛みを脳内で勝手に再現することがあるようである。痛み感覚は、損傷部位の痛覚刺激にはじまって、神経をもって脳にまでもっていって痛みと感じて、しかも、それを脳自体においてではなく、再度、損傷の部位に返し投影して感じるから、その間に誤作動の生じる可能性が出てくる。痛みの原因が消去されているのに、痛みが脳内で再現され特定の部位に投影され続けるというのでは、悩ましい痛みの暴走ということになる。 
 ほとんど損傷はないのに、痛みだけは過敏に感じるというようなこともある。痛風は、風がふいても痛みを生じることからの命名のようで、痛みを過剰に抱かされる(風がふかなくても体内の尿酸しだいで激痛となる)ようである。弁慶の泣き所なども、損傷らしいものはないのに痛み感覚のみは甚大となる。痛みの部位の過敏というより、痛みを受けとめる脳内の機能の亢進もあり、(痛)風どころか音とか光の刺激すらも苦痛となることがあるようである。 
 痛むが損傷はないという場合と違って、確かに損傷しているのだが、その損傷へ対処のしようのない場合は、いくら傷んでいるから痛みで知らせるといっても、痛みは、無意味なものに終わる。痛みが気になるようなものでなければ、それをとやかくいうこともないだろうが、痛みは、そこに気を奪い、ひとを打ちのめし不愉快極まりない状態にするので、痛まないでほしいということになる。癌の末期は、傷口に塩を塗るように無意味で過酷な激痛をもたらすことがある。尿路結石もたかが石が下りるだけなのに猛烈な痛みになると聞く。痛みの暴走である。犬など大けがをしても、人のようにいつまでも痛むことはないのだとかいう。ひとでも、痛んでもなにもできないのであれば、痛まない方がましであろう。 
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