痛み方は、傷み・損傷のあり様を語る 

2021年11月09日 | 苦痛の価値論
2-3-1-2. 痛み方は、傷み・損傷のあり様を語る  
 痛みは、多様である。その傷む部位における傷み方は様々で、どう損傷が生じているのかに応じて痛みの在り方は多様になる。切り傷の痛み、打撲の鈍痛、虫刺されの痛み、火傷、痒みなど、損傷の在り方の違いを痛みのちがいとして感じとる。皮膚表面での痛みと内部での痛みは、その痛覚神経自体から区別があり、その伝達速度も異なるという(痛覚をもたらす末梢神経には、鋭い痛みで伝達速度の速いAδ線維(一次痛)とか、鈍痛となる伝達の速度の遅いC線維(二次痛)とかがあって、損傷の違いを巧みに脳に伝えることになっているようである)。
 さらに、痛みは、部位に感じるということで、その部位をもって言い表す。歯痛は、歯に限定した痛みである。頭痛といわれれば、頭の中の痛みを想像する。頭の痛みでも表面の損傷は頭痛とはいわない。関節痛、筋肉痛、腰痛なども部位の痛みとして、その損傷を防いだり治すために、まず、意識される部位の痛みとしてあげられることである。まれに痛覚のない者がいるというが、痛まないから身体は傷だらけになってしまうようである。傷んだ部位に痛みがあることは、生保護にとって大切なことだといえる。歯痛なども、はやく歯を抜けということで意味ある痛みである。が、頭痛は、解せない。痛んでも何もできない。そとから対処しようがないのであれば、痛みで悩ますことがない方がましとも思われるが、頭痛も、風邪だと、これを放置しないようにと警告しムチ打つのだから有用といえば言えなくもない。
 「心が痛む」ということもある。これは、部位の痛みというわけにはいかない。身体の部位の痛みとは異質である。身体の損傷時に痛むどのあり方とも、心の痛みは異なる。同じく脳内での痛みだといっても、いわゆる頭痛の場合は、脳内の血管の具合いによって周辺に痛覚刺激が生じて頭痛がもたらされるもののようで、通常の痛みになり、部位の痛みである。だが、心の痛み、心痛という場合は、頭痛とはちがい、生理的な部位の損傷が生じているのではない。生理的世界ではなく、観念、精神の世界において、その思いが通らず、否定されたり無視されるといった状態になるのである。その観念的な否定・拒否等を、身体的な損傷に模しているのであり、心が傷つけば、それに伴う感情は、心の痛みということになる。良心は、自分で自分をさばいて罰を与え、自らに傷つき、痛む。傷心、心痛となる。身体の傷みへの痛みに似た心の痛みということなのであろう。