ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

犯則と処遇(連載最終回)

2019-06-08 | 犯則と処遇

 結論

 ベッカリーアは『犯罪と刑罰』の中の最終章「結論」部分で次のような総括をしている。

これまでわれわれが見てきたすべてのことから、次のような普遍的な定理を引き出すことができる。この定理は極めて有用なものなのであるが、諸国家において日常の立法者の役割を演じ、世に受け入れられているあの慣習(復讐:筆者注)に合致していない━。

 筆者もここで一つの結論を出すに当たって、同じ総括をそのまま引用したいと思う。ただし、結論の方向は異なる。その結論とは次のとおりである。

有害な社会現象である犯則行為を効果的に防止するためには、刑罰という手段ではなく、真実の解明と科学的な解析に基づいて、犯則行為者を矯正し、更生させるための処遇と、犯則行為の原因の根元を成す社会構造上の欠陥をただすための施策とを、不断に実行しなければならない。

 ともあれ、このような定理が完全な形で実現するのは、貨幣と国家のない社会においてであろう。逆に言うならば、貨幣と国家のある社会においては、なおも「犯罪→刑罰」図式が生き続けるだろうということである。なぜであろうか。

 まず何よりも国家が刑罰主体であるということの重みが大きい。すなわち刑罰権は国家主権の重要な内容である。効用から言っても、人を合法的な形で拘束し、殺害することもできる刑罰は国家体制護持の道具として極めて有効であるから、いかなる国家体制も刑罰制度を完全に手放すことをしないであろう。
 そのため、軍隊を持たない国はあっても刑罰制度を持たない国はない。しばしば矯正の先進国として称賛されるスウェーデンでも刑罰と保安処分とを一元化し、両者の区別を撤廃はしたが、刑罰そのものを廃止するというところまでには至っていない。
 そういうわけで、「非処罰」を実現するためには刑罰主体である国家ごと廃止することが最も徹底しているのである。

 しかし、そればかりではない。ベッカリーアの言う「世に受け入れられているあの慣習」、つまり復讐というものが単に観念としてでも生き残る限り、刑罰制度の廃止は遠い道である。
 その点、本論でも指摘したとおり、犯罪原因の大半―殺人のような生命犯の場合ですら―がカネにまつわる問題であるから、貨幣経済はすべての国で最有力の犯罪原因であり、従って貨幣経済を維持する限り、犯罪は顕著に減少せず、そうなれば上述の「慣習」も消滅しないという関係にある。
 逆に貨幣経済を廃すればただそれだけでも犯罪は激減し、残ったわずかな犯罪は報復的処罰でなく科学的処遇の対象とすべき犯則行為にほかならないことを理解する社会意識も高まるであろう。そうした展望を踏まえて、最後の結論である。

「犯則→処遇」の体系は、筆者が年来提唱する共産主義社会において初めて現実的な意義を持つものである。その意味で、それは『共産論』を具体化する派生論として位置づけられるべきものである。(了)

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犯則と処遇(連載第52回)

2019-06-07 | 犯則と処遇

45 復讐心/報復感情について

 本連載を通じた「犯罪→刑罰」体系から「犯則→処遇」体系への転換に当たり、最も障害となるのは、復讐心/報復感情の問題かもしれない。特に殺人のように取り返しのつかない被害を惹起する犯行に対して、加害者に刑罰を加えることなく、非刑罰的な「処遇」に付するのでは、復讐心や報復感情を満足させられないのではないかという懸念である。

 今、復讐心と報復感情とを連記したが、厳密には両者は別のものである。復讐心は通常、被害者本人やその近親者が加害者に対して(時として、その親族に対しても)抱く仕返しの心情であるのに対して、報復感情は社会大衆が犯罪の加害者に対して向ける第三者的な加罰感情である。
 その点、「犯罪→刑罰」体系は、被害者らの復讐心とは一線を画しつつも、それを社会大衆の報復感情の中に取り込み、代表させるような形で刑罰に反映しようとする応報主義のイデオロギーを前提としている。これは、社会心理的にも巧妙な策であり、世界中で成功を収めてきたことはたしかである。

 報復感情が民族や文化を越えた普遍的なものだとすれば、それは正義という人類の共通感覚に由来するものかもしれない。中でも給付と対価の関係性のような交換的正義と呼ばれるものである。これによれば、他人に害を加えたなら、加害者にも交換的に罰が加えられることが正義であるとされる。
 このような正義の感覚は、人類が先史時代から物を交換し合うという習性を身につけてきたことに淵源があるのであろう。とすると、人類が交換行為を続ける限り、言わば罪と罰の交換関係である刑罰制度からも離脱することは難しいかもしれない。言い換えれば、我々が交換経済―その権化が貨幣経済―そのものと縁を切らない限り、「犯則→処遇」体系への転換を実現することは難しいかもしれないということである。

 そのため、「犯則→処遇」体系への転換を真に完遂するには、貨幣経済が除去された共産主義社会の実現を要するという考えに行き着く。原理的には交換行為をしない共産主義社会における主要な正義は交換的正義ではなく、各人にその価値に応じた配分をなすべきとする配分的正義が軸となる。
 そうなれば、犯則行為者に対しても、応報的な刑罰ではなく、その行動科学的な特性や社会的な要因を考慮した最適の矯正・更生処遇を与えることこそ正義であるという認識が共有されるようになるに違いない。

 とはいえ、被害者及びその近親者の復讐心に関しては、それを抑制することは、たとえ配分的正義を軸とする共産主義社会にあっても不可能ではないかという疑念は残るかもしれない。
 ただ、復讐心の発生源もやはり、やられたらやり返さなければ不公平だという感覚に由来しており、これも広い意味では例の交換的正義の感覚と同種のものである。しかし、復讐心はより当事者性が強いため、それが充足されないことへの不満は大きなものとなり、実際に復讐行為を招きかねないという懸念があるかもしれない。

 この深遠な課題に対して、宗教的な博愛精神や慈悲の心によって復讐心を抑制するといった宗教的なアプローチも可能だが、これは信仰を持たない者には有効でない。より普遍的なアプローチは、心理学的・行動科学的なものとなるであろう。

 被害者側の心理や行動を主題的に研究する被害者学は現代の刑罰政策においても興隆し、発展しつつある新しい学術であるが、「犯則→処遇」図式の下でその発展がさらに促進されれば、被害者やその近親者の復讐心を軽減・緩和するための心理的・社会的な援助の技術と制度とが確立されるに違いない。

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犯則と処遇(連載第51回)

2019-06-06 | 犯則と処遇

44 防犯について

 『犯罪と刑罰』で近代的な刑罰制度の諸原理を初めて体系的に論じたベッカリーアは、「結論」の手前の実質的な最終章で防犯について述べている。曰く、「犯罪はこれを罰するより、予防したほうがよい」。
 この簡明なテーゼの「犯罪」をわれわれの「犯則→処遇」体系に沿って「犯則事件」と置き換えてみれば、たしかに、犯則事件は起きてから対処するより、そもそも起きないように努めたほうが平穏な社会を形成できることは間違いない。
 その点、防犯を方法論的にみると、①そもそも犯則行為の動機を生じさせないようにする方法(動機抑圧)と②犯則行為の機会を与えないようにする方法(機会抑止)の二つに大別できる。

 このうち動機抑圧は、防犯の方法として最も根本的なものである。そもそも犯則行為の動機が生じなければ、人は犯則行為に出ることもないからである。それだけに現実的にはかなり困難な方法である。
 その点、犯行動機の大半が金銭的利欲にあることは、現代資本主義社会―より広くは貨幣経済社会―の基本的な特徴となっている。  
 そうだとすれば、究極の動機抑圧的防犯策は、そもそもの貨幣経済を廃することである。それが実現すれば、金銭そのものを目的とする財産犯はもとより、金銭的な動機に発するその他の犯則事件も激減すること確実である。

 とはいえ、金銭的利欲によらない犯行も残ることはたしかである。そこで機会抑止策の必要性もゼロにはなるまい。こうした機会抑止の方法にも、人が監視する人的な方法と防犯カメラのような機械的な方法とがある。より簡便なのは機械的な方法である。  

 ただ、防犯カメラが実際にどの程度犯行抑止に役立つかについて厳密に科学的な研究はなされていないが、通常の犯行心理として、犯行現場を撮影されることは避けたいはずであるから、そこにカメラがあるということを認識できれば、機会抑止の効果はあると想定できる。  
 そのためには、防犯カメラはその存在を明示して設置しなければ防犯効果を得られないということになる。逆に精巧な模造品であっても、外観上防犯カメラとして認識できるものであれば、防犯効果を得られると言えるから、防犯カメラは模造品と真正品をランダムに混在させれば足りる。  

 一方、その存在を秘して設置するのは防犯カメラではなく、監視カメラである。これは防犯目的ではなく、捜査上犯行現場またはその周辺映像から犯人を割り出す映像証拠としての意味を持ち得るものである。こうした監視カメラには犯人以外の第三者のプライバシーを侵害する弊害もあるから、その設置場所や台数、映像の保管や開示に関して適切に規制する法律がなくてはならない。

 より大がかりで組織的な機会抑止策は人による監視であるが、今日ではほとんどすべての国で警察がこれを中心的に担っている。警察制度は元来、防犯任務を含む犯罪の制圧のために設置された武装警備隊に発祥していることからすれば、警察が防犯任務を担うのは自然な流れとも言える。  
 今日の警察は発生した犯罪の解明に係る捜査も担うのが通例であり、防犯から捜査まで一貫した権限を持つ強大な犯罪統制機関と化している。しかし、警察の強大化は、程度の差はあれ、警察国家化を招き、民主主義を侵食する。  

 そこで、防犯と捜査は組織的にも分権化し、捜査任務は専門的な捜査機関に、防犯任務は地域に密着した準公的な警防団組織に委ねることが合理的である。
 警防団は基礎自治体(市町村)ごとに組織され、管内各地区ごとに交番型の分団を設けて地域のパトロールに当たるほか、通報を受けて犯行・事故現場に急行し、現行犯人の制圧・逮捕、さらに犯行現場の初期保存などを担当する準公的組織である。
 このような警防団の役割は地域警察に似るが、警防員は警察官ではなく、非常勤職を含む準公務員である。よって警防員の職務執行上の人権侵害は、公務員の場合に準じて特別人権裁判による審理の対象となる。

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共産論(連載第44回)

2019-06-04 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(5)シンプル・イズ・ザ・ベスト

◇シンプルな社会文化
 共産主義を好意的に受け止める人々の間でも、共産主義社会を完全自給自足の農村共同体のようなイメージでとらえる人が少なくないかもしれない。しかし、それは仮説上の原始共産制のイメージであって、近代をくぐり抜けたポスト近代の共産主義社会は決して牧歌的な自給自足社会ではない。
 とはいえ、これまで見てきたように、共産主義社会では、商品に始まって貨幣、国家とそれらにまつわる諸々のものから大学に至るまで、現存する様々な事物と諸制度が廃止されていくので、かなりシンプルな社会になることは間違いないだろう。
 そこで、文化的な面でも、シンプル・イズ・ザ・ベストが象徴的な標語となる。この場合のシンプル(simple)という語には様々な含みがある。

◇四つのシンプルさ
 まず貨幣と国家、すなわち所有にまつわる長い歴史を持つ二つの価値観念が廃されることは、所有をめぐる社会の価値観を決定的に変えるであろう。
 「持つこと」は、資本主義社会におけるように最重要の価値であることをやめ、「持たざること」が恥ではなく、むしろスマートさの象徴となるであろう。持たざる者=シンプル(庶民的)な者は、文化的にも主役である。
 それとともに、地球環境に配慮しつつ必要なモノを必要なだけ生産する共産主義的計画経済の下では、大量消費を志向する消費文化は姿を消すこと確実である。それに代わって、必要なモノだけをそろえてできるだけ長持ちさせ、廃棄物を出さないシンプル(質素)な消費文化が高度に発達、定着していくと考えられる。
 さらに商品生産と経済競争の消滅は、資本の差異化戦略の結果、年々ほとんど不必要なまでに複雑な多機能・自動化が進められていく機械製品をよりシンプル(簡素)で高齢者や障碍者などの機械弱者にとっても使いやすいものに変える可能性がある。これは、機械におけるバリアフリー化であるが、第5章でも論じたように、社会全般のバリアフリー化が進むにつれて、健常の強者標準の文化から弱者標準の文化へと変化するであろう。
 また商品生産の廃止は、「売れない」モノでも少数の需要者が存在する限り生産中止とせず、少数の人のために生産を続けることを可能にする。このような意味でも、共産主義社会は多数者‐大きな物に目を奪われるのでなく、少数者‐小さな物にも等しく目配りがなされる社会である。そうした点で、共産主義はあたかも幼い子どものように偏見が少ないという意味でシンプル(純真)な文化価値を育むであろう。

◇人間の顔をした近代
 以上のように、ポスト近代の共産主義は、近代を否定して反動化していく方向ではなく、近代の成果面は継承しつつ、それをシンプリファイ(simplify:シンプルの動詞形)し、商品の顔ならぬ人間の顔をした新しい近代文明―それこそポスト近代文明と呼ぶに値するもの―を拓くであろう、と予測することは許されるであろう。

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共産論(連載第43回)

2019-06-03 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(4)競争の文化は衰退する

◇資本主義的生存競争
 資本主義的文化価値として商品価値と並んで重要なものは競争である。これは資本主義社会の主人公である商品が、言わば生産者間の競技場でもある市場を通じて販売される競争の賭け金であることと密接に連関している。
 こうした競争は資本主義社会の基軸である市場経済の原理であると同時に、一つの文化価値としても我々の人生そのものを規定しているところである。
 実際、資本主義社会では資本間の経済競争以外にも、試験、コンクール、コンペティション、競技会から選挙に至るまで、あらゆるものが競争的に編制されている。資本主義社会に産み落とされた者は生まれたその日から生存競争にさらされ、ライフ・サイクルの各段階ごとにふるい落としの審査にかけられ、人生の勝敗を分けられていく。
 こうした競争の文化の中では、競争において他人を蹴落とすことに罪悪感を持たないことが美徳となる。それは〈私〉の才能と努力の勝利であり、〈私〉には何の罪責もないことなのだ。
 このような価値観が支配的であれば、社会的に協力して何か一つの事業を成し遂げようというような風潮は消失し、人間は互いに競争的な関係に立つバラバラの原子と化す。地域コミュニティーも解体し、隣人同士も未知の異邦人のように見えてくる。
 資本主義が高度に発達した社会の人間は孤独である。かれらはそれ以上分割不能な個‐人に切り縮められて、豊かな消費生活と引き換えに「巨大な商品の集まり」の中に埋没していく。一方で、かれらがひとたび生存競争に敗れれば人生やり直しは困難であり、〈居場所〉を失い、社会的に排除され、周縁化されていく。
 しかし競争に勝ち残った者も決して心底満足しているようには見えず、内心にはぽっかりと空虚な穴が開いているのではないだろうか。
 「生き辛さ」を訴える声が強いが、これは競争の文化が競争の「負け組」の側に生じさせる社会病理的な症状である。その反面で、競争の文化は競争の「勝ち組」の側にも「虚しさ」のような病理症状を生じさせているのである。

◇共存本能の可能性
 競争至上主義者の信念とは裏腹に、人間は元来必ずしも競争的な動物とは限らないのではないかと推定させる証拠もある。例えば、競争とは英語でコンペティション(competition)であるが、この語の語源は「com:共に」、「petit:追求する」であり、その原義に最も対応する日本語は「競争」ではなく、「切磋琢磨」であろう。
 「切磋琢磨」にはライバルの他人を蹴落とすというニュアンスはなく、むしろそれは共に励まし合いながらお互いを磨き上げていくといった意味合いである。このコンペティションが資本主義の手にかかると、身もふたもない生き残り競争の意味にすりかわってしまうのだ。
 もう一つの例はカルテルである。カルテルは資本主義的競争を阻害する資本間の違法な謀議として取り締まりを受けるが、放置すれば跡を絶たないからこそ罰則をもって取り締まられるのである。
 表では競争を賛美する資本が裏ではなぜ競争を回避しようとするのであろうか。ライバルを蹴落とし潰すという資本主義的競争を純粋に貫いていった場合の最終結果は競争に勝ち残った一者がすべてを取る、つまり独占という無競争状態である。
 競争の結果、無競争が生じる―。ここに資本主義的競争の自己矛盾がある。この矛盾を回避するには競合する資本間でカルテルを結んで共存し合うしかない。これも資本に内在する一つの共存本能であろう。
 こうした例は競争的動物と見える人間に共存本能とも呼ぶべき本性が備わっていることを示唆するもののように思われる。実際、近年の行動経済学は、人間には利己性のみならず、利他性が備わっていることも明らかにしている。

◇共産主義的切磋琢磨
 共産主義社会は無競争のぬるま湯社会だという批判もあるが、共産主義社会でも先ほど述べたような意味でのコン‐ペティション=切磋琢磨が否定されるわけではない。共産主義社会で重視される社会的協力は決してぬるま湯ではなく、むしろ人々に切磋琢磨の価値を教えるであろう。
 そうすれば試験やコンクールの意味合いも変化するに違いない。試験はふるい落としのための手段ではなく、各人の適性を発見するための尺度であったり、教師自身が自分の指導法の成果を検証するための手段となるであろうし、コンクールは参加者がライバルの失策を密かに期待し合う妬みの場ではなく、お互いの腕前を披瀝し評価し合う祝祭のような場に変化するであろう。
 オリンピックのような競技会の持つ意味合いも変化する可能性がある。それは選手を送り込む各国間のメダル獲得競争、スポンサー企業間の利権獲得・宣伝競争であることをやめ、大会に参加する選手やチームが純粋に競技に没入し、観客が観戦を純粋に楽しむスポーツの祭典として原点回帰していくのではないだろうか。
 生産の領域でも、第2章で見たように、計画経済の適用がない分野では自由生産制が採られるうえに、共産主義経済では交換価値の観念が消え失せ、使用価値中心の世界となるのであるから、いかに良質で使いやすく長持ちするモノを生産するかというモノの真価をめぐる一種の競争関係は残る。
 共産主義社会では概して、競争は言わば「共走」に変化していくであろう。

◇究極の自殺予防策
 競争の文化の衰退に伴って、精神文化の面でもいくつかの重要な変化が生じると予測される。
 まず、競争に敗れ、人生やり直しもままならず死を選ぶ人は大幅に減少するであろう。もちろん共産主義社会でも自殺はゼロになるまいが、自殺の原因の多くは純粋に実存的なもの(病苦や死別など)に限られていくであろう。この点で、共産主義は精神科のどんな名医よりも自殺予防に威力を発揮するはずである。
 もう一つは宗教に救いを求める人が減るかもしれないということである。“困ったときの神頼み”は世界共通の現象であるから、「困りごと」の多い社会ほど人々は神に祈るのである。
 資本主義的競争に疲れ果て、自殺はしないまでも、“癒し”を求めてスピリチュアルなものに惹かれる人たちは少なくない。それが資本主義的な心的外傷を実際に癒している限り―ここでもまがい物をつかまされる危険は常にあるが―、マルクスの有名な箴言にもかかわらず、宗教は阿片以上のものである。イスラーム圏の宗教熱は、そのことの最も苦くも力強い例証である。
 しかし、切磋琢磨の共産主義的「共走」の文化は社会的な「困りごと」を減らし、宗教の役割を現在の哲学が果たしているようなそれに限定していくであろう。
 共産主義が無神論であると言われるのもそのような意味においてであって、信仰の自由を奪う「宗教弾圧」などを含意するものではあり得ない。

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共通世界語エスペランテート(連載第2回)

2019-06-01 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(1)世界語の意義①

世界語の意義
 世界語とはなにか。本連載では「世界語」という用語が頻出するが、「世界語」とはなにかということをはじめにはっきりさせておく必要がある。ここに「世界語」とは、もっともせまい意味においてはエスペラント語そのもののことをさす。実際、日本ではじめてのエスペラント語入門書である二葉亭四迷の著作タイトルは『世界語』であったし、今日でももっとも強力なエスペラント語スポンサーの一つである中国でもエスペラント語を「世界語」とよんでいる。  
 これに対し、もっともひろい意味ではおよそ世界中で普遍的に通用する言語という趣旨で「世界語」という用語を使用することもできるが、この意味では、現時点においてもっとも世界に普及している英語も「世界語」にふくまれることになる。  
 しかし、本連載はエスペラント語を母体としながらも、エスペラント語から独立したあらたな「世界語」たるエスペランテートを創出することに主眼がおかれるのであるから、英語もふくめたひろい意味で「世界語」という語を使用することは混乱のもととなる。よって、このような広義の「世界語」も除外される。  
 結局、本連載でいう「世界語」とは、世界中で通用しうる共通語として計画的に創案された言語という中間的な意味でもちいられることになる。この意味で「世界語」というときは、同種の目的から創案された諸言語はみな「世界語」にふくまれる一方で、英語のように慣習的に世界で通用するにすぎない言語は「世界語」にはふくまれないことになる。
 ちなみに、この意味での「世界語」はエスペラント語をふくめ、すべて人工的な計画言語であることになる。これに対し、英語のように世界中で実際上通用するいわゆる自然言語を「事実上の世界語」とよぶこともでき、本連載でもしばしばこのように表現することがある。  
 ところで、「世界語」が公式的に公用語と指定されたばあいは「世界公用語」とよぶのがより正確であるが、現時点でそうした意味における「世界公用語」は存在しない。エスぺランテートが将来そうした地位をもつまでは「共通世界語」とよぶことがふさわしいであろう。 

世界語の必要性  
 ところで、以上のような意味での「世界語」はそもそも必要なのだろうか。エスペラント語を「世界語」とみなしてきた伝統的なエスペランティストにとってこのといのこたえは問題なくイエスであるが、他のひとびとにとって、このといは世界に数千ともいわれる民族言語が存在する人類の言語的分裂状況を通訳・翻訳という営為によって克服することができるかどうかという問題にかかわっている。  
 この点からいえば、各民族言語はその言語を共有する民族集団がながい年月をかけて独自に熟成してきた固有の精神文化である。したがって、ある民族言語はその言語を解しない他民族にとってはただの音声ないしは記号にすぎない。  
 そうした民族言語の持つ精神文化性は通訳・翻訳の本質的な不能性を結果する。すなわち最良の通訳・翻訳といえども、それはある民族言語を別の民族言語のもっとも近似的な表現で「解釈」しているにすぎず、本質的に逐語訳ができているわけではないということである。  
 その点、旧約聖書にみえる「バベルの塔」の神話は示唆的である。それによると、かつて人類はすべておなじ言語をはなしていたが、あるときひとびとが天までとどく塔をつくって一つにまとまろうとしたため、主がくだって言語をみだし、たがいにあいての言語を理解できないようにしたという。  

 この神話は実現不能な計画のたとえとして引用されるが、一方で人類の言語が相互に理解不能なほど分岐したことの由来譚としても解釈できる。主(かみ)がなぜ人類が一つにまとまることを忌避し、言語の統一をみだしたのかの解釈は種々ありうるが、世界語を創案するこころみはかみの意志にふたたび反するおこないだということになりそうである。
 たしかに、今日の人類は世界に拡散し、それぞれの精神文化の所産である多数の言語をもつが、情報通信技術の発展により、遠隔地のひとびと同士のコミュニケーションの可能性と必要性がたかまっている。コミュニケーション上の誤解はしばしば紛争のもとともなるから、世界語は紛争の防止にも寄与するだろう。  
 より積極的に、地球環境を保全して繁栄を持続させるべく、人類の統一がふたたび要請される時代でもあり、その際の共通的コミュニケーション・ツールとして、世界語の意義はおおきい。いいかえれば、実現不能な「バベルの塔」をたてることなく、世界中に拡散した多言語状況を維持したまま、共通の言語を共有する共同体を結成するのである。  

 その点、人工的に計画・創案された世界語は特定民族の精神文化に依拠していないため、世界中のだれもが容易に習得し、誤解なくコミュニケートすることを可能にするのである。そうした利点からしても、世界語の必要性は十分にみとめられるといえる。

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