ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

スウェーデン憲法読解(連載第3回)

2014-12-04 | 〆スウェーデン憲法読解

第二章 基本的自由及び権利

 本章は基本的人権を列挙した章で、日本国憲法では第三章に相当する部分である。しかし、両者の最大の違いは、冒頭から意見の自由の規定が置かれていることである。スウェーデン民主主義の基礎が意見形成の自由にあると宣言された第一章第一条を受けてのことである。なお、スウェーデン憲法の条文は通し番号ではなく、各章ごとに第一条から改めて立て起こされる形式を採っている。

意見の自由

第一条

1 すべての人は、公的機関に対して、次の各号に掲げる自由を保障される。

一 表現の自由:言論、文書若しくは画像により、又は他の方法により、情報を伝え、思想及び感情を表現する自由

二 情報の自由:情報を獲得し、受け取る自由及び他の方法により、他者の表現を知る自由

三 集会の自由:情報、意見の表明若しくは他の類似の目的のため又は芸術的な作品の発表のために集会を開催し、集会に参加する自由

四 示威運動の自由:公共の場所において、示威運動を起こし、示威運動に参加する自由

五 結社の自由:公的又は私的な目的のために、他者と団結する自由

六 宗教の自由:単独で、又は他者とともに自らの宗教を信奉する自由

2 出版の自由及びラジオ、テレビ及びこれらに類似する伝達手段、データベースから行われる公演並びに映画、ビデオ、録音媒体及び他の技術的記録媒体における同様の表現の自由に関しては、出版の自由に関する法律及び表現の自由に関する基本法を適用する。

3 出版の自由に関する法律においては、文書にアクセスする権利についても定める。

 第二章筆頭の本条では、スウェーデン民主主義の基本にある意見の自由の内容がコンパクトに整理されている。注目されるのは、いわゆる表現の自由は意見の自由の一つでしかなく、情報の自由や宗教の自由まで幅広く意見の自由に含めていることである。つまり、スウェーデンでは宗教の自由も単に個人の内心領域にとどまる信仰の自由ではなく、宗教的な観点からの意見を形成する自由としてとらえられているのである。
 一方、出版の自由や近年爆発的に発達するデジタル媒体の扱いについては、憲法の一部を成す二つの法規に詳細が委ねられる。また文書へのアクセス権も出版の自由の一環として出版自由法に委ねられる。

第二条

すべての人は、公的機関により、政治的、宗教的、文化的観点又は他の観点において、自らの意見を明らかにするよう強制されてはならない。すべての人は、意見形成のための集会、示威運動若しくは他の意見表明行為に参加すること又は政治結社、宗教団体又は第一文に規定する意見のための他の団体に参加することを強制されてはならない。

 意見形成の自由の反面としての意見を表明しない自由、すなわち沈黙する自由の保障規定である。それと関連して、集会、デモ、種々の結社・団体への参加を強制されない自由も保障されている。このあたりにも、簡潔ながら用意周到なスウェーデン憲法の特質がよく現れている。

第三条

いかなるスウェーデン市民も、同意なしに、その政治的意見のみを根拠として、公的な記録に登録されてはならない。

 犯歴ではなく、政治的な意見表明歴を根拠に、要注意人物として警察等のデータベースに登録されないことも、意見の自由の一環として明確に保障されている。逆に言えば、秘密警察活動の禁止である。ただし、本条で保護されるのはスウェーデン市民に限られ、外国人は対象外である。つまり、外国人は政治的意見のみを根拠に、警察等のデータベースに登録されることはあり得る点で、本条による保障は万全と言えない。

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晩期資本論(連載第15回)

2014-12-02 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(4)

 前回見たように、マルクスによれば、「労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である」のであった。この命題をさらに詳細に解明することが、『資本論』の本題である。その前提として、労働力が資本家に消費される過程で見られる二つの現象について整理される。

労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。・・・・・・第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接生産者である労働者のものではない。

 資本主義社会に生きている者たちにとっては釈迦に説法であるが、労働者は資本家の指揮命令に背くことはできず、自分が生産した製品を無断で持ち帰れば、窃盗罪に問われる。この点で、自らの判断に従って労働し、自ら生産した製品はまず自分の所有物となる自営業者とは大きく異なるわけである。

・・・われわれの資本家にとっては二つのことが肝要である。第一に、彼は交換価値をもっている使用価値を、売ることを予定されている物品を、すなわち商品を生産しようとする。そして第二に、彼は、自分の生産する商品の価値が、その生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち商品市場で彼のだいじな貨幣を前貸しして手に入れた生産手段と労働力との価値総額よりも、高いことを欲する。

 今度は、資本家の視点で見た資本主義生産過程であるが、要するに、資本家は「ただ使用価値を生産しようとするだけではなく、商品を、ただ使用価値だけではなく価値を、そしてただ価値だけではなく剰余価値をも生産しようとするのである」。

価値形成過程と価値増殖過程とをくらべてみれば、価値増殖過程は、ある一定の点を超えて延長された価値形成にほかならない。もし価値形成過程が資本の支払った労働力の価値が新たな等価によって補填される点までしか継続しないならば、それは単純な価値形成過程である。価値形成過程がこの点を超えて継続すれば、それは価値増殖過程になる。

 マルクスが挙げているいささか古典的な紡績労働の例―彼の時代には典型的な資本主義的労働であった―で言えば、こういうことである。
 20時間で生産される10シリングの綿花10ポンドと、4時間で生産される2シリングの紡錘四分の一個分を使い、必要労働6時間の紡績労働による付加価値3シリングとして、計30時間で15シリングの綿糸10ポンドを生産する場合(賃金は日当換算で6時間3シリング)、資本家は生産手段としての綿花と紡錘で計12シリング、紡績工の労働力に3シリング、総計15シリングを投資して、15シリングの綿糸10ポンドを生産していることになるが、これではプラスマイナスゼロであり、価値増殖が何ら生じない。資本制企業で、このような経営を続けるなら、倒産は時間の問題である。
 これに対して、40時間で生産される20シリングの綿花20ポンドと、8時間で生産される4シリングの紡錘二分の一個分を使い、12時間の紡績労働による付加価値6シリングとして、計60時間で30シリングの綿糸20ポンドを生産する場合(賃金は同じく日当3シリング)、資本家は生産手段の綿花と紡錘で計24シリング、労働力に3シリング、総計27シリングを投資して、30シリングの綿糸20ポンドを生産しているので、ここで3シリングの価値増殖が生じ、これがいわゆる剰余価値となる。
 つまり、資本家は前の事例と比べて、紡績労働で倍働かせることで付加価値を生み、差額の3シリングを搾取したことになる。倍増した12時間労働のうち、最初の必要労働6時間を越える部分は剰余労働となる。つまり、長時間労働である。
 このように、労働力の価値を示す必要労働時間を越えた労働を強いることは、資本が剰余価値を搾取する仕掛けである。ただ、従来の資本主義(修正された資本主義)では労働時間規制により、このような極端な長時間労働を強いることはできなくなっていたし、晩期資本主義でも基本的に労働時間規制は継承されているが、近年の「労働ビッグバン」により、労働時間の規制緩和という逆行現象が生じることで、再びマルクス的な意味での剰余労働は増加しつつあると言えよう。

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晩期資本論(連載第14回)

2014-12-01 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(3)

労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払いを受ける。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。

 労働力という商品の売買の特殊性を言い表す命題である。ここでマルクスが挙げているのは週給の例であるが、月給であれば報酬の支払は月末であるから、労働力の使用価値は一月近くも前貸しされることになる。マルクスは、もう少し抽象化して、「労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのである、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。」とも言い換えている。

労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。

 『資本論』の根本命題である剰余価値論につながる重要な中間命題である。簡単に言えば、資本は労働力を使って商品を生産し、その過程で付加価値を生み出す。資本主義にとっては至極当たり前のことを言っているだけだが、この関係に巧妙な搾取の構造を読み取ろうとするのが、『資本論』の主題である。

労働とは、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。

 マルクスは独自の剰余価値論を展開するに当たり、いくつか基本的な概念規定を行なっている。ここでは、まず労働一般の定義が示される。それによれば、労働とは人間と自然との媒介である。しかも、それはミツバチの受粉のような動物的な本能による媒介行為ではなく、自分自身の合目的的な意志に基づく意識的な行為である。

労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。

 労働過程の三つの要素、すなわち労働それ自体と、その対象、手段が区別される。これらは労働過程を分析するうえでの基本的な要素ともなる。

労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役立つ物またはいろいろな物の複合体である。労働者は、いろいろな物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる。

 労働対象には、土地・水のような天然資源とそれに人間が手を加えた原料とがあるが、労働手段は労働対象に働きかけてそれを種々の製品に加工するための用具である。労働手段は時代によっても変遷があり、「労働手段は、人間の労働力の発達の測定器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある」。すなわち、労働手段を見れば、その社会の構造も見えてくる。

この全過程(労働過程)をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現れ、労働そのものは生産的労働として現れる。

 生産物の観点から遡ってまとめれば、労働手段と労働対象という二種の生産手段を用いて、生産的労働が行なわれることで生産物が完成する。ただし、これはマルクス自身が注記するとおり、一般論にとどまり、資本主義的生産過程の特殊性を踏まえた規定とはまだなっていない。

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