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不能を強いる護国司法

2012-05-26 | 時評

25日に名古屋と大阪の高裁で出された二つの司法判断、すなわち名張毒ぶどう酒殺人事件の再審請求審決定と抗がん剤イレッサによる副作用死をめぐる民事裁判の控訴審判決は、事件の年代も内容も、訴訟の種別も全く異なるが、いずれも薬品の性質や作用が主要な争点となり、しかもいずれも請求人ないし原告の側に厳密な立証を求めて請求を棄却した点に共通項がある。

一般に薬学・医学の素人である原告側(再審の場合は請求人)に薬品の性質や作用に関して厳密な立証を求めればその請求は否定される方向に働きやすいことは明白である。そのため、原告救済の視点に立てば、立証の程度を緩和しなければならないわけだが、いずれの司法判断もそうはしなかった。

そうはせず、原告側に不能な立証を強いることによって上級審が国の責任を免除しようとしたという点でも、両判断には共通項がある。すなわち、名張事件では死刑確定事件で5件目となる再審無罪事例が出現しかねないことで司法制度の信頼性、さらにはその存続が国是である死刑制度が深刻な打撃を受けることを避けようとしたのだし、イレッサ事件では薬事行政を担う国による副作用監視義務の水準が著しく高度化することを避けようとしたのだ。

ここには、法的理屈を盾に国民を犠牲にしてでも国家の利益を護ろうとする司法の姿勢が明瞭に示されている。「護国司法」である。

司法をめぐっては、今月施行3年の節目を迎えた裁判員制度をもって司法は国民本位に変わったなどという宣伝がメディアや法曹界を巻き込み官民一体で行われているが、表面上の変化にもかかわらず、行政に対して国民を護らない司法の根幹的本質は不変であることを示したのが、昨日同時に出された二つの司法判断であった。

再審や民事裁判には裁判員制度は適用されないから―裁判員制度がそれほど素晴らしいならなぜだろうか―、これらは「変化」の埒外だというのは形式論的な言い訳にすぎない。現行司法はいったいどちらを向いているのか、宣伝に惑わされず、しかと見つめる素材としたい事例である。


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