ザ・コミュニスト

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良心的裁判役拒否(連載第6回)

2011-09-24 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第3章 審理・評決法の欠陥(続き)

(3)裁判員の口封じ
 最高裁が裁判員制度をPRするに際して公募し当選したキャッチコピーは「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」というものでした。
 法に基づく法裁判にあって、それほど「私」が前面に出てきてよいのかという疑問にとらわれますが、そんな心配も無用なほど、裁判員制度は裁判員(補充裁判員を含む)に厳重な口封じをしています。
 この点、制度施行前から、裁判員経験者に対する懲役刑の制裁を伴う守秘義務が特に批判されてきました。たしかに、守秘義務は最大級の口封じですが、裁判員に対する口封じの規定は守秘義務だけではありません。評議の過程でも「服従」「整理」という形で口封じをされるのです。
 初めの「服従」とは、「法令の解釈」と「訴訟手続」については、裁判員は裁判長が示した職業裁判官の合議による判断に従わなければならないというものです(裁判員法66条3項・4項)。
 これは「法令の解釈」や「訴訟手続」に関する判断は専門性が高いため、職業裁判官の専権に委ねられるというある意味では当然のことなのですが、裁判官の示すそれらの判断が常に正しいという保証はありません。
 例えば、「法令の解釈」に関する裁判官の判断が誤っていれば、本来罪とならない行為が犯罪行為と解釈されて有罪になってしまうことがあり得ますが、それも一種の冤罪です。
 また「訴訟手続」に関する判断として重要なのは自白の任意性の問題です。自白偏重捜査が根絶されない日本では捜査段階における自白の任意性が重要な争点となりがちで、その判断が甘いと、捜査機関の違法捜査を見逃したり、冤罪に直結したりすることがあります。
 こうした場合に、裁判員に裁判官の判断への服従を義務づけ、これに従わないことを解任事由とまで規定しているのは(同法41条1項4号、43条2項)、まさに口封じにほかなりません。
 さらに、裁判長は評議に際して、「評議を裁判員に分かりやすいものとなるよう整理」する権限を与えられていますが(同法66条5項)、この一見親切な規定には裏があります。
 ここで言う「整理」とは、陪審制において評議には同席しない裁判長が法廷で陪審員に対して評議のポイントを説明する「説示」とは異なり、まさに評議の場で裁判長が「評議」そのものを「整理」してしまうのですから、これは裁判員にとっては発言に枠をはめられるに等しいことを意味します。先の「服従」に対して、よりソフトな形の口封じなのです。
 こうした硬軟両様の口封じをしたうえで、裁判員法は全裁判員に評議で意見を述べることを義務づけ(同法66条2項)、なおかつこれに違反し、沈黙を保つことを解任事由と定めているのです(同法41条1項4号、43条2項)。話すことを強制するという特異な定めです。しかし、ここで強制される「意見」とは先に「服従」と「整理」を前提としたものですから、このような発言強制は口封じの裏返しにすぎないのです。実際、先の解任事由の規定が服従義務違反と発言義務違反とを同一条項で並べて定めていることは、その何よりの証拠です。
 要するに、冒頭のキャッチコピーにもかかわらず、裁判員が下手に「私の視点、私の感覚、私の言葉」にこだわれば、解任されかねないわけです!。穿った見方をすれば、こうした「服従」と「解任」は一票差評決のような事態が実際にはほとんど起きないように、裁判長が裁判員の多くを自分(たち)の意見に誘導しやすくする仕掛けと読み解くこともできるかもしれません。
 さて、口封じの最大級のものとして問題視されてきた守秘義務ですが、実は守秘義務は現役裁判員に対するものと退役裁判員に対するものとがあります。
 このうち、現役裁判員が評議の状況等をリアルタイムで開示することを禁ずるのは裁判の公正を確保するうえでやむを得ない制約ですから、あまり問題にされていません(ただし、最大で6ヶ月もの懲役刑を科することは罪刑の均衡を失している疑いは残ります)。
 問題は退役裁判員に対する終身間にわたる守秘義務、なかでも評議における「裁判官若しくは裁判員の意見又はその多少の数」を公表することや、自らが関与した「判決において示された事実の認定又は刑の量定の当否」を述べることを守秘義務違反の罪として処罰しようとすることにあります。
 ただ、なぜ裁判員法がこのような行動に神経を尖らせるかと言えば、やはり前節で見た僅差評決法に関わってきます。つまり、重大事件の判決が5:4のような僅差であったことが暴露されれば社会的に大きな波紋を呼び、被告人ら当事者も判決に不信を持ちますから、評議における意見分布を「評議の秘密」とみなして守秘の対象としているのです。さらに、一票差評決で敗れた少数意見の裁判員が義憤や正義感に駆られて事件の判決を公に批判するといった事態を何としても避けようとしているのです。結局のところ、前節で見たような僅差評決法の持つ根本欠陥を覆い隠すためにこそ、厳重な守秘義務が用意されているわけです。
 なお、ジャーナリストや作家といった表現者が裁判員経験者に接触して、守秘義務に違反する談話をとって記事や著書で公にすれば、一般刑法上の共犯規定を介して、それら表現者も裁判員法上の守秘義務違反の罪の共犯に問われる恐れがあるという点で、口封じは報道機関その他の表現者に対しても芋づる式に及んでいくことにも注意が必要です。

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死刑廃止への招待(第6話)

2011-09-24 | 〆死刑廃止への招待

死刑制度は日本国憲法にも違反すると解釈できる余地が十分にある

 戦後間もない1948年の大法廷判決以来、日本の最高裁判所は60年以上にわたり、「死刑は憲法に違反しない」との立場を護持し続けています。
 最高裁判所の裁判官は下級裁判所の裁判官とは異なり、たった一人でも反対意見を表示することが認められているのですが、過去60年あまり「死刑は憲法に違反する」との反対意見を出した裁判官はただの一人もいないという徹底ぶりです(本稿執筆時点)
 もちろん、死刑が憲法に違反するか否かという憲法適合性の問題と、死刑が政策的に妥当かどうかという問題は論理上別問題ですから、死刑が憲法に違反しないからといって制度を廃止することが許されないというわけではありません。
 しかし、「憲法の番人」がおよそ二世代、60年の長きにわたって死刑=合憲論を護持し続けていることの影響は大きく、死刑制度を固着させ、死刑廃止をおよそ論外のこととしてタブー化することを後押ししていると言っても過言ではないでしょう。

 それにしても死刑=合憲論は果たして変更不能なほど自明な定理なのでしょうか。筆者は憲法学者ではありませんが、憲法学者ですら正面から取り組もうとしないこの問題に蛮勇を奮ってチャレンジしてみたいと思います。
 その前に、今日に至るまで一貫してリーディング・ケースとなっている1948年大法廷判決の論理をまずは見ておきます。この判決の判断枠組み自体はなかなか理路整然としており、死刑制度の憲法適合性を判定するに当たって、(ア)死刑制度そのものの合憲性と(イ)死刑執行方法の合憲性とを分けて検討しています。
 (ア)の死刑制度そのものの合憲性について、判決は次のように判示します。

「憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に同条においては、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然に予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに、憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明かに定められている。」

 要するに、憲法13条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」との文言、31条の「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」との文言を反対解釈すれば、「生命・・・・・・に対する権利といえども、公共の福祉に反するときは、国政の上で、最大の尊重を必要としない。」及び「何人も、法律の定める手続によれば、生命を奪はれ・・・・・・る。」となり、憲法が死刑制度を是認していることは明らかだというのです。従ってまた、死刑制度そのものが憲法36条で絶対に禁じられる「残虐な刑罰」に当たることもないとしています。
 一方、(イ)の死刑の執行方法の合憲性については、次のように判示します。

「死刑といえども・・・・・・その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。」

 要するに、火あぶりやはりつけといった前近代的な死刑執行方法を復活させるようなこと―実際のところまずあり得ない―がない限り、現行法上の絞首刑は憲法に違反しないというのです。

 以上のような大法廷判決の論理は一見してスキがないように見えます。しかし、必ずしもそうではありません。
 まず、死刑制度そのものの合憲性について、判決は憲法13条と31条を単純に反対解釈して合憲の結論を導いていますが、基本的人権の保障に関わる規定をひっくり返して逆さに読み、かえって人権の制限・剥奪の根拠にすりかえてしまうというロジックが本末転倒なのです。
 実は、判決もそのことに一抹の後ろめたさを感じたようで、「言葉をかえれば」として、次のような理由付けを急いで付け加えているのです。

「(憲法は)死刑の威嚇力によって一般予防をなし、死刑の執行によって特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもって社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられる。」

 これは要するに、死刑制度を社会防衛上の必要から理由付けし、なおかつ社会防衛上の必要が個人の人権よりも優位すると断じたものです。
 しかし、仮に憲法が死刑制度を是認しているとしても、死刑制度の存在理由―社会防衛以外にも、応報とか法確証とか様々の理由がある―について憲法は何も述べていないのですから、これは憲法の解釈から脱線した刑罰政策論になってしまっています。
 しかも、上記理由付け後半の「個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ」云々という部分は、判決が冒頭で自ら引用する憲法13条前段がまず個人の尊重、すなわち「個体に対する人道観」を上位規範として打ち出したうえで、同条後段で一定の場合に公共の福祉、すなわち「全体に対する人道観」による生命、自由等に対する権利の制限を是認するという構えを取っていることを逆さに解する、それ自体憲法に違反する解釈にほかなりません。
 こうして、大法廷判決は余分な理由を付け加えることで、かえって語るに落ち、憲法に対する無理解をさらけ出してしまったようです。
 ただ、大法廷判決のために弁護するとすれば、この判決は現行憲法とは反対に、まさに「個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ」ていた旧明治憲法が事実上廃棄され、現行憲法が施行された翌年という早い時期に出されたもので、憲法の番人自身もまだ新憲法の解釈・適用に習熟しておらず、裁判官の頭の中から旧憲法的価値観が抜け切っていなかった時代の産物であるという事実は否定できません。
 そうであればなおさら、そのような時代物の判例を60年以上も護持し続けることは適切でないのです。現行憲法の読み直しに基づく新しい判例の形成が是非とも望まれるところです。

 とはいえ、今のところ死刑=違憲論の少数意見を示す気骨ある最高裁判事が見当たらないなら―しかし、なぜでしょう?―、一般市民が代行してしまおうというわけです。
 その際、前記大法廷判決がとる(ア)死刑制度そのものの合憲性と(イ)死刑執行方法の合憲性とを分ける論理的な判断枠組みは一応これを借用することとします。そこで、まず(ア)の死刑制度そのものの合憲性を検討していきますが、ここでも大法廷判決にならって憲法13条から入ってみます。
 この条項は、先に指摘したとおり、はじめに前段で「個人の尊重」をうたっています。個人の尊重とは個人の存在性に関わる身体・生命活動を基礎とする個人の幸福全般の尊重を意味しています。
 それを受けて、後段では「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の「最大の尊重」を立法権とはじめとする国家権力に課しています。しかし、これには「公共の福祉に反しない限り」という限界が設けられていますから、裏を返せば「生命・・・・・・に対する国民の権利」の保障が「公共の福祉」に反するときは少なくとも「最大の尊重」は必要としないことになるわけです。
 ここで注意すべきは、「最大の尊重」は必要としないとは、いきなり権利を剥奪してゼロにしてしまってよいことを意味しないということです。「最大」の反対は「無」ではありません。少なくとも「最大」でないということは「最小」かもしれないし、「大」かもしれないし、その度合いは問題となる権利の性質によりけりとなります。
 この点、死刑制度との関わりで問題となる生命に対する権利は、他の全基本的人権の土台となる基本中の基本権です。人間は生きていなければ表現活動も経済活動もその他のいかなる活動もなし得ないのですから、これは当然の事理とも言えましょう。その意味で、生命に対する権利は人権の中で最も重要とされる表現の自由よりも重要な権利です。
 そうすると、生命に対する権利の保障が公共の福祉に反する場合にあっても、この権利は国政上「最大の尊重」は無理でも「最大に近い尊重」は必要とすると解されます。従って、国家が個人の生命に対する権利を侵害することが憲法によって合憲とされるのは極めて例外的な場合に限られると言うべきです。
 その具体的な判断基準としては、最も厳格な基準に従い、緊要な公共的利益に対する明白かつ現在の差し迫った危険を除去するために、国家が個人の生命を侵害する以外に適切な方法がないと認められるような場合を除いては、国家による生命の侵害が憲法上許容されることはないと考えるべきでしょう。
 この基準に照らしてみると、死刑は社会秩序を脅かす極めて重大な犯罪に対して科せられる刑罰ではありますが、犯人に対して死刑が適用・執行される時点では通常、その重大な犯罪はすでに終了しており、社会秩序に対する明白かつ現在の差し迫った危険は消失しています。
 もっとも、組織的なテロ事件などで、逮捕・起訴された組織リーダーの奪還を大義名分としてテロ活動が続いているというような場合は、なお社会秩序に対する明白かつ現在の差し迫った危険が継続していると言えるでしょう。
 とはいえ、そうした場合にその組織リーダーを死刑に処する以外に適切な方法はないと言い切れるでしょうか。たしかに、その者に死刑を執行すればさしあたりリーダーの奪還というテロの大義名分は消滅しますが、その代わりにリーダーを処刑されたことに対する報復という新たな大義名分の下にテロが継続され、結局社会秩序に対する脅威はかえって増す恐れすらあります。
 そう考えると、このようなケースにおいてさえ、死刑は先の合憲性基準を満たさないと解され、死刑は憲法13条に違反するという結論が導かれます。
 このように、死刑制度そのものが憲法に違反すると解すると、次の死刑執行方法の合憲性という論点は検討する必要がなくなります。死刑制度が憲法に違反するとは、死刑の執行方法のいかんを問わず、死刑一般が憲法に違反し、存続の余地はないということにほかならないからです。

 ここで、先の大法廷判決が挙げていた憲法31条は「法律の定める手続」による限り、刑罰として生命を奪うことも許容しているのだから、死刑が憲法13条に違反するとすれば憲法内部で矛盾が生ずることにならないか、との反問があるかもしれません。
 しかし、同条はいわゆる適正手続き(デュー・プロセス)に関わる規定であって、文言上も「法律の定める(適正な)手続によらなければ」生命であれ、自由刑であれ、その他のいかなる刑罰であれ、科することが「できない」ということを国家に条件づけているのですから、大法廷判決のようにこの条項をもって憲法上許容された刑罰を例示した規定と読むのも、実は恣意的な反対解釈であったのです。
 一方、死刑廃止に強い熱意を持つ方ならば、そもそも死刑制度一般が憲法36条で絶対に禁じられた「残虐な刑罰」に当たるのではないかとお考えかもしれません。
 これはストレートで明快な解釈ですが、「残虐」という文言は限定的かつ感覚的ですから、絞首とか薬物注射とかの具体的な死刑執行方法を問わずに、死刑一般が「残虐」かどうかを一律に判断することは実際上困難なことのように思われます。
 いずれにせよ、死刑=合憲論は決して永久不変の定理などではないのです。判例変更を促す被告人・弁護人の法廷弁論に期待が持たれるところです。

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