ザ・コミュニスト

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風評被害か差別か

2011-09-22 | 時評

愛知県内の花火大会で福島県製の花火が「放射能を撒き散らす」といった一部の抗議を受けて除外されるという出来事が波紋を呼んだ。

原発事故後相次ぐ福島県産品に対する「風評被害」の延長とも読める事態だが、果たしてそういう理解で済ませてよいだろうか。

以前にも書いたが、放射性物質が付着している「物」に対する科学的・医学的根拠に基づいた回避は何ら「差別」に当たらないことはもちろん、「風評被害」という言い方自体も妥当でない。それは単なる「風評」にとどまらない健康被害の恐れのある事態だからだ。

しかし、科学的・医学的根拠に基づかない「物」の忌避は、単なる「風評被害」では済まない場合がある。

健康上問題のないことがはっきりしている場合、あるいは明らかに問題があるとは言えない場合にさえ忌避するとなると、それは「物」の忌避を通じて、間接的にはその「物」の産地である福島県、さらには福島県民という「人」の差別へと波及していくからだ。

見方を変えれば、「物」の忌避の裏側に「人」への差別が隠されているとも読めるのだ。

本来「差別」とは「人」に対する蔑視であり、直接には「物」を対象とする忌避は「差別」に当たらないから、「花火事件」を直ちに「差別」と断定できるわけではないが、それは限りなく「差別」に近い「前差別」とでも呼ぶべき新たな事象ととらえるべきではないか。

放射線差別はこれまで日本社会では経験されたことのない新たな差別事象であるだけに、今後も奇想天外な形で様々な「事件」が起きてくるであろうが、それを「風評被害」の一言で片付けずに、ひとつひとつ「差別」に該当しないかどうか吟味していく必要があるだろう。

また、原発事故後、放射線の測定や除染を市民自身の手で行うことが一種のブームとなり、そうした風潮を「市民科学者」などと持ち上げる議論もあるが、このブームが、一方で放射線差別にも反対するという〈反差別〉の意識ともリンクしていないならば、かえって放射線差別を助長する恐れもあることが懸念される。

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