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ザ・コミュニスト

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死刑廃止への招待(第3話)

2011-09-02 | 〆死刑廃止への招待

死刑は一定の重大犯罪を犯したと認められた者を化し、人間としての存在価値を否定する究極の差別である

 死刑を正当化する理由づけはいろいろありますが、究極的な決め手は一定の重大犯罪を犯したと認められた者を化し、一種の動物としてその人間的な存在価値を否定するところにあると考えられます。
 この点、裁判所の死刑判決の中でもしばしば被告人を「鬼畜」呼ばわりしたり、もう少し穏やかに「人間性を欠く」と指弾したりすることがありますが、これこそが決定的な「死刑の理由」なのです。被告人が人間であるならば、やはり人間としての尊厳を認めてやらねばならないので、被告人を化して、害獣と同様に「殺処分」することを正当化するロジックを必要とするのです。

 このように犯罪者を動物視する思想には西洋でも長い歴史があります。古くはアリストテレスが「悪人は動物よりも悪く、より有害である」と指摘し(動物以下!)、これを引き継いで、中世スコラ哲学の大家トマス・アクィナスも「人が彼の尊厳を保持する限り、人を殺すことはそれ自体として悪である。しかし、犯罪者を殺すことは、動物を殺すことと同様に、善であり得る」と断じます。
 また、近代啓蒙思想の祖ジョン・ロックに至っても、「人間はライオンやトラなど野生の獣とともに社会を形成することもできないし、安全を確保することもできないのであり、こうした獣を殺してもよいように、犯罪者を殺すこともできるのである」と勇ましく書いています。
 こうした思想に共通しているのは、人はある特定の犯罪を一度でも犯したことによって人間とはみなされなくなるという考え方です。これは要するに、罪を犯した人に対する差別の視線なのです。
 「犯罪者」という日常語がすでに、犯罪を犯したということを一つの負のしるしとして、一般人と異なる何か特殊な個人であるとみなす差別一歩手前の表現になっているわけです。これにさらに「凶悪」という形容が加わって「凶悪犯罪者」となると、これはもはや人間ではない動物、あるいは動物以下の屑として人格を否定され、死を宣告されます。

 それでも、実際、人間とは呼べないような所業をなす者は現実に存在するではないか、そのような者を鬼畜と断罪することがどうして“差別”なのだ、とお怒りになるでしょうか。
 しかし、実際上、生きるに値しない鬼畜か、生きるに値する人間かを厳密に区別する基準はあるのでしょうか。
 これは死刑か無期刑かの判断基準、すなわち死刑の適用基準としてかねてから議論になってきた問題とも関連してきますが、例の裁判員制度の下では、原則として死刑判決にも裁判員が関与しなければならなくなったため、死刑の適用基準は一般国民が直接に当面する問題となったのです。
 この点、現行法上、外患誘致罪(刑法81条)という罪は法定刑に死刑しか持たない唯一の犯罪ですが、この場合は基準を云々するまでもなく、外患誘致の事実が認められる限り、自動的に死刑となるので極めて明快です。しかし、外患誘致とは「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させる」罪であって、内乱罪(刑法77条)と並ぶ一種の国家反逆行為ですから、これは凶悪犯というよりも国事犯として断罪されるものです。
 これ以外の死刑相当犯罪では、死刑はすべて選択刑として与えられていますから、死刑の適用基準に悩まされることになります。例えば、最も代表的な殺人罪(刑法199条)では「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役刑に処する。」という簡単な規定があるだけですから、具体的にどんな場合に死刑を選択すべきか、規定上からは全くうかがいしれないのです。
 そこで、最高裁は1983年の永山事件判決で「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害者感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地かも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」という“基準”を示しています。
 しかし、これは死刑の適用にあたって考慮すべき要素をごった煮的に列挙しただけであって、各々の要素をどの程度どう考慮すべきか何も示していません。
 よく死刑廃止論に対して、「人を何人殺しても死刑にならないのは納得できない」との反論が寄せられますが、被害者の数だけが死刑の決定的基準ではないですし、その被害者数にしても、では何人殺せば死刑を適用すべきなのか明言できる人は裁判官を含めてまずいないのでしょう。
 このようにあってなきがごときあいまいな“基準”でもって、「生きるに値しない者」(=死刑)と「生きるに値する者」(=無期刑)とを選別すること自体も差別にほかならないのではないでしょうか。
 もっと徹底してあいまいな“基準”によって、人間を「生きるに値しない者」と「生きるに値する者」とに峻別する政策を極限まで追求したのはナチスでした。
 ナチスは「健全な民族共同体」の夢を実現すべく、「生きるに値しない」と判断されたユダヤ人をはじめとする少数民族、障碍者、同性愛者などを絶滅しようと企図し、実際に実行しました。そのナチス体制が同時に、死刑制度を大幅に拡大強化し、大量処刑政策を採ったことは決して偶然ではありません。
 ナチスは一つの極限的事例ではありますが、死刑とは国家が人を生きるに値するか/値しないかという観点から恣意的に選別する制度であるという点で、ナチ的なるものとの親和性を否定することはできません。

 とはいえ、私どもは残酷な犯罪を犯したとされる人に非人間的なものを感じ取ってしまうことも事実です。これはいったいどうしてだろうかという疑問が長く筆者にまとわりついています。
 この疑問を解くことは容易ではありませんが、その鍵をドイツの哲学者ニーチェのアフォリズム『人間的な、あまりに人間的な』の中に見出すことができます(以下、池尾健一訳による)。
 ニーチェによると、「われわれの内部にいる野獣は欺かれたがる、道徳はわれわれがかの野獣に引き裂かれないための窮余の嘘である」というのです。すると、野獣―鬼畜と言い換えてもよいでしょう―は私どもの内部にも潜んでいるようです。それを「道徳」という名の欺瞞によって眠らせてあるのです。ニーチェは、そのような人間存在のありようを「超動物」と名づけます。
 ところが、「今でも残酷であるような人々は、残存している以前の文化の諸段階とみなされなければならない」、「彼らは、われわれすべてが何者であったかを、われわれに示して、愕然とさせる」といいます。このように、「遅れたものとしての残酷な人間」を見せられると、「自己を何か高級なものと考え」ている「超動物」たるわれわれは、自己の内部で眠らされていた野獣の存在に気づかされて恐怖し、なおかつ「動物性のほうに近いままの段階に対して憎悪を感じ」るのです。
 そうだとすると、残酷な犯罪が発生したときに社会に沸き起こる道徳的パニックも、単に他人に対する第三者的な糾弾なのではなく、自己の内部で太古以来眠らされていた「内なる鬼畜」を呼び覚まされることへの恐怖と、そこから生じた自己否定的な憎悪を本質とする現象ということになりそうです。そして、このような自己否定的な憎悪が残酷な犯罪を犯した者の鬼畜視という差別へとつながっていくのだとすると、ここには簡単に解きほぐすことのできない深層心理的なメカニズムが伏在していることになるでしょう。
 ニーチェの言うような「超動物」なる問題系は、死刑廃止を人類普遍の法則に昇華させるうえで最大の難関となるのではないかと筆者は考えている次第です。

 さしあたり私どもになし得ることは、犯罪の残酷さという事実に目を奪われることなく、そのような犯罪を犯した人が犯行に至るまでのプロセスをトータルに見る視座を持つことではないでしょうか。
 鬼畜視の視線にあっては、人はある特定の日付に犯したとされる犯罪行為だけで「鬼畜」として記号化されてしまうのですが、どんな「鬼畜」にも問題となった犯行に至るまで十数年から数十年の人生があります。
 その人生はたいてい経済的にも精神的にも苦難に満ちたものです。しかも、ほとんどの場合、虐待・放棄、反対に過保護・過干渉など親の不適切な育児・養育の犠牲者です。つまり、「鬼畜の所業」などと断罪されるような犯罪を犯した人は例外なく社会的困難者、言わば社会の迷子たちなのです。
 こうした人たちは青少年期のどこかでSOSを発信していたはずなのですが、社会の側でそれを受信し損ねると、かれらは救出されないまま、糸の切れたタコのように軌道を外れてあらぬ方向へ飛んでいってしまいます。その行き着く先の中でも最悪のものが凶悪犯罪です。
 この点、米国の著名な精神医学者カール・メニンガーがより一般化して、「長い間我慢してきた受身の状態、挫折感、無力感から抜け出すために、何かをしたいという絶望的な必要に迫られて犯罪は犯される」と指摘していることも参考になります。
 このように、犯罪を犯した人を全人的に把握する視点に立ってみれば、多くの人は、残酷な犯罪を犯した者といえども「生きるに値しない鬼畜」と断ずることに一定のためらいを感じるようになるのではないでしょうか。

 この点からみても、裁判員制度では裁判員の負担への配慮を口実に、平均して三日というような超短期審理が企図されているため、全人的な把握をする時間的余裕がなく、犯行の残酷さにとらわれた鬼畜視が促進され、ひいては死刑判決も増加しはしまいかという懸念があります。
 このような懸念を払拭するためにも、死刑を求刑される可能性のある事件では、短期審理に拘泥せず、丁寧な審理を目指すべきことは、死刑を存置する現行法制の下では最低限度の要請であると考えます。

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