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共産教育論(連載第5回)

2019-04-23 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(4)脱学校化
 教育をめぐっては、古い時代からの社会通念と化した常識が多々存在するが、中でも最大級のものは学校制度であろう。つまり、正規の教育は必ず学校制度を通じて提供されるというものである。ここでいう学校とは、専従教員という人的資源と常設校舎という物的資源とを備えた学校のことである。
 このような学校制度は、生徒を一箇所に収容し、一斉に同等の授業を行なうことには適しており、一見して「平等」な教育を可能とするかに見えるが、実のところ、学習速度の個人差を無視し、学習速度の速い子どもには退屈を、遅い子どもには苦痛を強いる不平等な教育であると同時に、生徒の自発性を抑制する受身的な教育となる。
 さらには、子どもの領分における差別行為としてのいじめや児童性暴力をはじめ、人格形成に長期的な悪影響を及ぼす成長期におけるトラウマ体験の多くが学校制度の内部で起きていることも無視できず、このような弊害を重視するなら、既存の学校制度は子どもにとって有害環境であるとさえ言える。
 それにもかかわらず、既存の学校制度の是非が疑われることはほとんどなく、学校制度は社会的に当然視され続けている。しかし、高度情報社会の到来は、こうした社会通念に疑問符を付する好機でもある。インターネットを通じた遠隔通信システムの発達は、学校制度のあり方を根本から変える可能性を持つからである。 
 すでに通信教育システムは一部で導入・普及が進んでいるが、それらは正規の学校制度の補完的な教育もしくは正規の学校制度からはみ出した生徒を対象とする補充的な教育システムの領域にとどまっており、正規の学校制度そのものを通信教育に転換するという大胆な試みはなされていない。
 資本主義社会でそのような教育革命を実現するとなれば、必要な通信インフラ整備のために膨大な支出を伴うことは必至であるから、おそらくそこまでは踏み切れないであろう。その点、貨幣経済から解放される共産主義社会ではコスト問題に制約されることなく、大規模な通信教育化を実現することが可能となる。
 そればかりか、前回見たような上下の階層を持たない完全一貫制の基礎教育課程は、子どもたちが各自のペースに応じて自発的に学習し、知的な創造性を広げることを旨とするから、既存の学校制度よりは、個別的な遠隔通信教育システムに適している。
 そのように、専従教員も常設校舎も持たない純粋な通信教育システムであっても、前々回見たように、教育の公共性が貫かれるならば、それをなお「学校」―サイバー学校―と呼ぶことは許されるかもしれないが、私たちが通常想定する学校とは大きく異なるため、こうした純粋の通信教育システムへの革命的移行は、「脱学校化」と呼ぶほうが適切であろう。


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