八ノ〇 第二次メキシコ共和革命
(1)概観
メキシコは1846年‐48年の米墨戦争に敗戦した結果、北部領土の割譲を余儀なくされ、南方に縮小された形で再編された。その間、戦争初期の1846年8月には連邦制憲法が復活し、再び合衆国に復帰した。
この復活合衆国の下では、米墨戦争後、1850年代にベニト・フアレスに代表される連邦主義‐自由主義派が大きく台頭し、これに政変による失権後、復権してきたサンタ・アナ、彼の再失権後、継承したフェリックス・マリア・スロアガらに代表される集権主義‐保守派が対抗する形で、事実上の内戦状態に陥った。
この内戦は「改革(レフォルマ)戦争」と通称されているが、実態としては1855年にサンタ・アナ政権を打倒した後、1857年の新憲法の制定を経て、強力に展開された自由主義の改革政治に反対する保守派による反革命戦争であった。
しかし、いったんは敗北を喫した保守派はフランスと通謀して1861年にフランスのメキシコ出兵を幇助、1864年にはハプスブルク家の一員マクシミリアン大公を擁立して、メキシコ第二帝政を樹立した。
この事実上フランスの傀儡である第二帝政に対し、フアレスら自由主義派は武力抵抗を続け、1867年に帝政打倒と合衆国の復活に成功した。これは、1823年に第一帝政を打倒した第一次共和革命に対し、第二次共和革命の位置づけを持つ。
メキシコはこれ以降、今日まで君主制が復活することなく共和制が定着、20世紀初頭のメキシコ革命も共和制枠内での社会主義的革命であったので、第二次共和革命は共和革命としては終局的なものとなった。
同時に、第二次共和革命はフランス傀儡である外来の帝政を打倒した点でも特異的であるが、背後にあったフランスのナポレオン3世による第二帝政にとっても打撃となり、普仏戦争での敗戦を経て、第二帝政の崩壊を導く間接的な動因の一つとなった(拙稿)。
フランスでは第二帝政の崩壊に続いてコミューン革命が勃発するが、メキシコの第二次共和革命はそうした大西洋を越えた新たな変革の波の前兆とも言える。とはいえ、メキシコ第二次共和革命にはさほど急進的な性格はなく、1855年の自由主義革命の延長上にある革命であった。
そのため、大土地所有制や先住民差別などの社会経済的な構造問題は積み残しとなり、フアレスの急死後には開発独裁型の長期政権が立ち現れた。構造的な問題の解決は、20世紀の新たなメキシコ革命の課題となる。