ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

貨幣経済史黒書(連載第17回)

2018-10-21 | 〆貨幣経済史黒書

File16:幕末日本の通貨危機

 いわゆる鎖国時代の日本では、18世紀頃までに金を基軸通貨とし、銀は重量に応じて価値を定める秤量貨幣とする独自の通貨制度が確立されていたところ、19世紀の天保年代に入ると、幕府の慢性的財政難への対策として、額面が記された計数貨幣としての銀貨が発行されるようになった。
 この銀貨は一分銀(天保一分銀)と呼ばれるように、含有銀量が極めて小さな悪貨であったが、安易な出目収入を狙い、年貢増による財政再建の困難さを埋め合わせるため、名目貨幣として政策的に大量発行されるようになり、開国直前期の金銀比率が従前の1:10程度の相場から一気に1:5程度にまで銀高に転じていた。
 このような時期に米国の黒船外交により開国を強いられたのは、不幸であった。開国を機に米側は、米ドルと日本通貨の交換比率を有利に設定しようと狙っていたのだ。米側は金銀の同種同量交換を主張するが、幕府側は一分銀は名目貨幣であることを理由に、1ドル=1分の交換比率を主張した。しかし米側に押し切られ、1ドル=3分の交換比率で合意させられた。
 とはいえ、不慣れな外貨と邦貨の交換に不安を抱く幕府側は、国内でのドルの流通を許す代わりに、邦貨とは交換しないという新提案で食い下がるが、これも米側に押し切られ、通貨交換を一年限りとする代わりに、邦貨の国外持ち出しを認めるという条件で合意させられたのだった。
 しかし、これは罠にかかったも同然であった。実際、この条件により、外国商人は1ドル=3分銀貨を両替商に持ち込んで金の小判に両替したうえ、これを海外で地金として売却することで大きな利益を得ることができる仕組みであった。結果として、鎖国時代にはなかった金の流出という恐れていた事態を招くこととなった。
 この時、実際どれほどの金が流出したかについては、正確な経済統計を残す習慣を知らなかった時代の限界から、推計値には諸説あるが、最少推計でも10万両程度と言われる。ごく短期間での突発的な流出量としては無視できない値であり、幕府も憂慮したことは疑いない。 
 緊急対策上、幕府は銀貨を改鋳して実質的に1ドル=1分となるような新銀貨(安政二朱銀)を発行し、これを外国貿易限定で通用させるという策に出たが、米英からの抗議を受けてあえなく停止に追い込まれた。その後も、幕府は万延元年の遣米使節を通じ、なおも粘り強く通貨交渉を試みるも、米側の説得には失敗した。
 最終的に採られた苦肉策は、金貨の改悪であった。これが万延小判である。この策により、金銀比率は実質的に1:15程度の国際標準に近づいたことになるが、旧金貨が額面上三倍にもなることから、旧貨幣所持者が両替商に殺到する両替騒ぎをきたした。
 そればかりか、このような急激な改鋳は、それまで日本経済が経験したことのない物価の不安定な変動を伴うハイパーインフレーションを招き、庶民や下級武士層の生活を直撃した。
 その様子は、後に明治経済人となる渋沢栄一が「物価とみに騰貴し、一定の俸禄に衣食する士人は最も困難を蒙れり。此処において外夷は無用の奢侈品を移入して、我が日常生活の必需品を奪い、我を疲弊せしめて、遂に呑噬の志を逞しくするものなり、此の禍源を開けるは幕府なりと、天下をこぞりて罪を開港に帰し、ひたすら幕府と外人を嫉視するに至れり。」と記し、攘夷・倒幕運動の一因ともなったほどであった。
 省みれば、元禄時代の勘定奉行として貨幣改鋳を担った荻原重秀が西洋経済学を参照することなく到達していた信用貨幣論を発展させていれば、幕末通貨危機を防止・軽減することも可能だったやもしれないが、いわゆる鎖国政策は知の停滞を結果し、時代遅れの実物貨幣制度と近代的通貨制度との唐突の出会いが、深刻な通貨危機を引き起こしたのであった。

コメント