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民衆会議/世界共同体論(連載第6回)

2017-09-07 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第2章 民衆会議の理念

(1)民衆主権論
  本章では、民衆会議/世界共同体論において、最初の出発点となる民衆会議に込められた理念から説き起こすことにする。民衆会議とは、国家なき統治において中核を成す社会運営団体である。それは名のとおり、民衆が主人公となる会議体である。
 この規定中にすでに現れているように、民衆会議は民衆が主人公という民衆主権の理念を支えとしている。その点、ブルジョワ民主主義では国民主権、プロレタリア民主主義では人民主権など、何らかの意味で「民」が「主」であることを強調する理念が従来から提起されてきたが、いずれも空疎な美辞麗句に終わっている。
 国民主権はリップサービスとして主権者を国民一般と規定しておきながら、実態としては資本と富裕層を主権者としつつ、一般民衆は選挙の投票マシンとして周縁化し、政治的決定から極力遠ざける階級的な政治制度の遮蔽幕である。
 一方、人民主権は労農プロレタリアート―平たく言えば一般民衆―が主権者たることを“革命的に”高調しながら、実態としては共産党その他の支配政党指導部が独占的主権者であり、一般民衆は政治参加すら許されない「人民無権利」の悪いジョークとなってしまった。
 民衆主権はそうした空手形の空論を排して、政治の主導権を実際に民衆の手に渡すことを追求する実践的な理念である。従って、見かけ上は類似概念ながら国民主権論や人民主権論とは相容れず、どちらからも敵視される“危険な”概念となるだろう。
 ただし、民衆主権がいわゆる直接民主主義と結びつくものでないことは、前章でも論じたとおりである。民衆主権は民衆がより直接に参加可能な代議制を要請する。こなれない用語ながら、これを「半直接的代議制(または代表制)」と呼ぶことにする。

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