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農民の世界歴史(連載第23回)

2016-12-15 | 〆農民の世界歴史

第6章 民族抵抗と農民

(3)清末の義和団事変

 先に述べたとおり、19世紀半ばの太平天国はキリスト教から派生した新興宗教的な性格を持った農民反乱が半革命化したものであったが、それは一面で「滅満興漢」をスローガンとする漢民族のレジスタンスの意義も併せ持っていたと言える。このように農民反乱が民族抵抗の意義を持つのは、モンゴル系元朝を打倒し、明朝樹立をもたらした元末の白蓮教団の乱以来、新たな中国史の一部となっていた。
 しかし太平天国が鎮圧・解体された後、しばらく農民反乱は沈静化するが、体制の危機は終わらなかった。特に対外関係においては、フランス、日本との戦争に相次いで敗れ、19世紀末には列強による勢力分割に直面した。精神的な面でも、列強の侵食が進む中、キリスト教の布教活動が地方農村部にも及んでおり、入信者を増やす一方で、地元有力者や地方官吏、さらに伝統的な精神世界を重視する農民層から反発され、宣教師や信者と衝突する仇教事件が多発するようになった。
 そうした中、孔子の生誕地曲阜が所在することから儒教の聖地でもある山東省で新しい反乱の芽が生まれる。山東省にはかねてよりドイツが侵出しており、それに伴う仇教事件も頻発していたところ、そうした事件の「解決」のため自警団組織の性格を持った拳法組織が暗躍するようになり、次第に連携して義和拳と呼ばれる組織にまとまっていく。
 こうした義和拳を構成する諸組織は拳法を修練する武道団体であると同時に、多くは民間信仰的な呪術を信奉する宗教団体の性格を併せ持っていた。その点では、従前の農民反乱の精神的なバックグラウンドともなっていた白蓮教や太平天国との共通点もあったが、よりいっそう武闘的・土俗的傾向に傾斜していた。
 この山東省義和拳はいったんは列強に要請を受けた清朝当局によって弾圧されたが、沈静化することなく、かえって裏目となって山東省の外にも広がりを見せていく。特に首都北京を含む直隷省に及んだことは、重大事態であった。
 この頃には義和拳は地方官吏などの庇護の下に巨大化して義和団となっていたが、決して統一的な団体ではなく、何人かの指導者の下に組織があるだけで、統一行動は取れていなかった。それでも、この運動に参加する人の数は膨大なものに上っており、その構成も農民に限られたものではなかったので、義和団運動を純粋な農民反乱とみなすのは正確でないが、参加者の主力が農民あるいは離農した流民であったことはたしかである。
 こうして膨れ上がった義和団は政治運動というよりも、行く先々でテロ的な襲撃行動に出て、社会を混乱させる破壊活動の性格を帯びていた。しかも、元来反キリスト教運動に源流があるため、太平天国のように「滅満興漢」かつ親西洋ではなく、正反対の「扶清滅洋」をスローガンとしていた。
 そこに目を付けたのが、時の清朝最高実力者西太后であった。彼女は義和団が体制維持に有用であることに気がつくと、この運動を陰で黙認・助長した。その結果、当局の取締りを免れた義和団は1900年、北京を事実上占領し、日独の両公使を殺害した。これに乗じて清朝政府は、日本を含む列強に宣戦布告するという策に出た。その結果、事態は単なる反乱を越えて、清対列強8か国の戦争状態へと転化していく。このように民衆反乱と体制が結合したのは、中国史上初めてのことであった。
 しかしこの無謀な策は、清朝に高い代償を払わせた。8か国連合軍は共同してたちまちに北京を制圧、清朝は巨額の賠償金を負担することとなり、財政的にも破綻する。事変後も権力を維持した西太后も再考して、それまで自ら否定していた近代化改革にようやく着手しようとした矢先に死去してしまう。
 その後の清朝は、辛亥革命による終焉の道を転がり落ちていった。一方で、内容は様々ながらも宗教的に鼓舞されてきた中国的な農民反乱の歴史も終幕し、以後は社会主義運動に合流していく。とりわけ中国共産党の活動に新たな形態の農民運動の性格が加わるが、この件は後に取り上げることにする。

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