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農民の世界歴史(連載第22回)

2016-12-14 | 〆農民の世界歴史

第6章 民族抵抗と農民

(2)近世朝鮮の農民反乱

 朝鮮農民は、中国農民のように歴史の節目で反乱を起こすこともなく、また中近世の日本農民のように一揆の形で抵抗を示すこともなく、中世以降は一種の奴隷制である賤民を伴う両班制下で搾取されつつも、賤民より上位の常人という階級を与えられて従順さを保っていた。
 こうした懐柔された安寧が大きく転換されるのが、李氏朝鮮王朝後期の19世紀である。その要因は、三政の紊乱と呼ばれる朝鮮王朝体制の揺らぎであった。三政とは朝鮮王朝体制を支える田政・軍政・還政(貸米)の三大政策をいうが、基軸となる田政の紊乱とは支配階級である両班が悪徳化し、帳簿操作等による農民に対する不正違法な増税搾取が蔓延したことである。
 これにより小作農はいっそう困窮し、流民化した。この時代には賤民も消滅しており、小作人は最下層階級に落とされていた。一方で、富農の中には官職買収により両班に成り上がる一族も出るなど農民の階層分裂も進んだ。国政はと言えば、19世紀に入ると王室外戚の権勢が強まる勢道政治の弊害が露呈し、社会改革は進まず、政治腐敗が深まった。
 そうした中、当初は1810年代以降、北部の平安道を拠点とする農民反乱が勃発するが、こうした反乱が19世紀半ば以降には全国規模で同時多発するようになっていった。この反乱の主力は農民であったが、中央政治から疎外された地元有力者の地主両班層である郷任と呼ばれる中間階級が反乱の指導者となることが多かった。
 これらの農民反乱の集大成的な事変が、19世紀末の東学党の乱である。これが従前の農民反乱と異なるのは、東学という新興宗教をバックグラウンドとしていたことである。東学は1860年に崔済愚が開祖として創始した新興宗教結社で、儒教・仏教・民間信仰など先行宗教の諸要素を融合した東洋的な習合宗教であった。
 東学を基盤とする新たな農民反乱の指導者となったのは、教団幹部で非両班の地方役人でもあった全琫準である。1894年、彼は農民軍を率いて南西部の全州で武装蜂起し、これを占領、一種の革命解放区とした。最終的には、時の外戚閔氏主導朝鮮王朝政府との間で全州和約を締結し(ただし、史料的根拠不明)、全州農民自治権力が樹立された。
 ここまでの経過は同世紀半ばの清朝下における太平天国と類似しているが、太平天国のように指導部が専制化することはなく、むしろ東学農民自治は民権保護機関としての執綱所を通じて地方官吏を監視する制度を備えるなど、不完全ながらも民主的な地方自治政府の色彩が強かった。
 もう一つ、太平天国と異なる点は、東学農民自治政府は鎮圧のために朝鮮政府が引き入れた清軍と自国権益保護を名目に派兵されてきた日本軍を排撃するために再決起したことであった。その結果、農民反乱は民族抵抗戦の性格を帯びたことから、この事変は全体として甲午農民戦争と呼ばれることが多い。
 並行して展開されていた日清戦争ではすでに日本の勝利がほぼ決しており、日本軍は農民軍掃討作戦に集中できた。しかし貧弱な装備の農民軍と明治維新を経て近代化されていた日本軍は真っ当な対戦相手ではなく、農民軍は短時日で撃破され、全琫準も日本軍により拘束、朝鮮政府により処刑された。
 一連の甲午農民戦争は時の朝鮮王朝内の実権者閔妃と一時的に復権した元最高実力者・興宣大院君の熾烈な権力闘争とも関連しており、大院君が甲午農民戦争に関与し、陰で煽動していた証拠が挙がっている。
 大院君としては、東学農民軍を利用して政敵閔氏と日本軍を排除しようとの思惑があったと見られるが、このように支配層の一部が同床異夢的に合流していたならば、甲午農民戦争は類似の状況下で間もなく清朝で勃発する義和団の乱にも近い性格を帯びていたことになる。

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