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農民の世界歴史(連載第21回)

2016-12-12 | 〆農民の世界歴史

第6章 民族抵抗と農民

(1)近代セルビアの農民出自王朝

 19世紀に入ると、東方の諸国では農民反乱に民族抵抗の色彩が高まっていく。その傾向は必ずしも普遍的なものではなかったとはいえ、その中でも持続的な成功を収めた例として、15世紀末以降オスマン帝国の支配下に置かれていたバルカン半島セルビアの民族蜂起が注目される。
 オスマン支配下のセルビア人は比較的寛容な帝国の異民族政策に沿い、中世以来のセルビア正教を保持しつつ、農村部で自治を認められ、多くが農民、特に養豚で暮らしていた。しかし、第二次露土戦争敗戦後の帝国衰退の中、セルビアの地方支配者であるイェニチェリ軍団の圧政が強まると、セルビア人の蜂起が始まる。
 このセルビア蜂起は19世紀初頭に二次にわたって発生したが、第一次蜂起を率いたのがカラジョルジェ・ペトロヴィチであった。彼は貧しい養豚農家の生まれで、青年時代は富裕なトルコ人家庭の使用人として働いていた。その後はオーストリアの傭兵を経て、豚商人に転じた。
 1804年、農民らによるイェニチェリ軍団への抵抗が始まると、カラジョルジェはこれに参加、抵抗が次第にセルビア全土に及ぶ独立運動に転化する中で、指導者にのし上がっていった。第三次露土戦争とほぼ並行したこの第一次蜂起は成功せず、13年までにオスマン帝国軍により鎮圧された。
 しかし間もなく1815年、第二次蜂起が開始される。これを率いたのは、第一次蜂起ではさほど重要な役割を果たさなかったミロシュ・オブレノヴィッチであった。彼も父方はモンテネグロ人の貧農出身の豚商人であり、オブレノヴィッチ姓は民族革命家として高名だった異父兄の実父(母の前夫)の名にちなんだものだった。
 17年にカラジョルジェを暗殺した彼は戦闘よりも現実主義的な交渉能力に長けており、セルビア人勢力に対して優勢だったオスマン帝国と交渉してその宗主権内での自治公国の地位を獲得したうえ、自ら初代セルビア公におさまった。オブレノヴィッチの非立憲的な専制統治には批判も強かったが、彼の強力な指導によりセルビア公国の基盤は固まり、ここから近代セルビアの歴史が拓かれたことも事実である。
 以後のセルビアではオブレノヴィッチ家とそのライバルで第一次蜂起の指導者であったカラジョルジェの子孫であるカラジョルジェヴィッチ家が交互に支配することとなるが、19世紀末の独立王国化を経て、1903年の軍事クーデターによりカラジョルジェヴィッチ朝が確定し、ユーゴスラビアへの改称後、45年の社会主義共和制移行までセルビアを統治したのである。
 この近代セルビアを王朝支配した両家はいずれも農民出自である点、周辺バルカン諸国を含めたヨーロッパでは稀少な例であるが、ここにはセルビアにおける農民を主力とする民族抵抗の歴史が色濃く反映されていると考えられる。
 同時に、その出自からも畜産に依存した近代セルビアは、20世紀初頭、復権したカラジョルジェヴィッチ朝の下で親露政策に転換すると、それまで従属的同盟下にあったオーストリア‐ハンガリー帝国からの禁止関税の報復措置を受け、同国との間で通称「豚戦争」を起こしたことが第一次世界大戦の経済的伏線ともなった。

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