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戦後日本史(連載第14回)

2013-07-30 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔二〕第一次新自由主義「改革」

 1987年まで5年近くに及ぶ久々の長期政権となった中曽根政権は、当時まだ漠然と「新保守主義」という政治的な用語で呼ばれていた路線の流れの中にあった。
 それは主として国営企業や公社・公団等の公的経済セクターの民営化と規制緩和を通じた民間資本の市場拡大を主要な政策とし、自由市場経済をイデオロギー的に追求していく反共・反社民主義的な政治経済潮流であって、79年に発足した英国のサッチャー保守党政権、81年に発足した米国のレーガン共和党政権に続き、82年には日本でも中曽根政権がこの路線の明確な体現者となったのである。
 こうした路線に基づく中曽根政権の施政方針は、20年近くを経て、あらゆる点で極めて類似する小泉政権の下では「新自由主義」なる新たなネーミングを伴って、いっそう強力に展開されることになる政策パッケージの先駆けとも言えるものであった。従って、歴史的には中曽根政権下での「改革」を「第一次新自由主義「改革」」と名づけることができるであろう。
 ここで「改革」とカッコ付きなのは、そもそも「新自由主義」とは名ばかりで、要するにその内容は19世紀以前のレッセフェール型自由主義経済と秩序維持に役割を限局された夜警国家を範とし、20世紀以降の社会権を踏まえた社会的な自由ではなく、古典的な経済的自由を追求する歴史的な反動思想の一つにほかないからである。
 こうした思潮はすでに前任の鈴木善幸首相の下で「行政改革」の形を取りながら始まっていたが、中曽根政権はそれをよりいっそうイデオロギシュに推進していくのである。
 それを象徴する施策が、日本専売公社・日本国有鉄道・日本電信電話公社の三公社民営化政策であった。これらはいずれも形態こそ異なれ、多数の労働者を抱える戦後日本の代表的な公共企業体であり、特に電電と国鉄は大労組を擁したことから、その民営化は次節で述べる労組切り崩し策の一環という底意も込められていたのであった。
 一方、中曽根政権下での規制緩和策の中でも、今日にまで至る重大な影響を残す施策は派遣労働の規制緩和である。中曽根政権は85年に労働者派遣法を制定し、人材派遣業を公認したのである。
 もっとも、当初派遣労働が認められたのは一部の専門的職種に限られていたが、それはその後の法改正によって逐次許容範囲が拡大され、小泉政権下の04年にはついに製造業にまで拡大されるに至る蟻の一穴だったのである。
 こうした労働市場における規制緩和策は、派生的にリクルート社のような人材情報サービス産業の成長を促進する一方で、同社を舞台として複数の現職事務次官のほか、中曽根政権の官房長官の収賄にまで発展した汚職事件(リクルート事件)を引き起こした。
 また85年のいわゆる「プラザ合意」後の円高不況対策という消極的な狙いからとはいえ、中曽根政権末期に導入された金融緩和策は、中曽根退任後に無規律な投機ブーム・バブル景気を発生させ、結果として90年代初頭のバブル経済崩壊とその後の長期不況の原因を作り出した。

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