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戦後日本史(連載第11回)

2013-07-16 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔四〕「司法反動」の始まり

 1960年以降、「逆走」は長い鈍化の時代に入るが、「逆走」が完全に中断されたわけではなかったのは、一つの日頃目立たない領域においては、むしろ「逆走」が加速化していたためである。その目立たない例外的な領域とは司法であった。
 法秩序に関わる司法は占領=革命における改革の最も中心的なターゲットとされていた。その結果、司法制度全体に改革の手が入り、戦前の司法省を頂点とする行政主導的で独立性・中立性を欠いた抑圧的な司法から、最高裁判所を中心とするより独立性・中立性の高い司法へと変更されたのである。
 最高裁判所は新憲法の下、「憲法の番人」として立法・行政に対する違憲審査権という大きな権限を手にしていた。それに伴い、法曹界は保守層の「自主憲法制定」路線に対抗して、新憲法を擁護する護憲派の一大拠点となっていった。その象徴が、54年に結成された若手護憲派法律家の横断的な団体「青年法律家協会」(青法協)であった。
 この団体は60年代に入ると、多くの裁判官会員をも擁するようになり、司法部内部にも浸透して一定の潜勢力を持つようになった。それは、「逆走」が鈍化する中で高まりを見せていた革新・革命運動とも底流では結ばれた動きでもあったろう。
 青法協の影響力は元来保守的な最高裁そのものを大きく変えるまでには至らなかったとはいえ、最高裁の判断傾向にも一定の変化を与えるようになり、最高裁は60年代半ば以降、特に公務員の労働基本権を巡る裁判で、比較的リベラルな解釈を提示するようになってきた。
 こうした司法部の「左傾化」に危機感を抱き始めたブルジョワ保守層は、かれらが「左傾化」の大元とにらんだ青法協への攻撃を開始する。その最初の犠牲者は、北海道で航空自衛隊基地の建設に反対する住民が起こした行政訴訟で初めて自衛隊違憲判決を出した札幌地裁の福島重雄裁判長であった。
 自身青法協会員であった福島判事に対しては、上司に当たる札幌地裁所長から、判決前に自衛隊に対する違憲審査を回避するよう私信の形で圧力が加えられた。このように憲法で保障された裁判官の独立を侵害する明らかに憲法違反の裁判干渉をはねのけ、あえて違憲判断に踏み切った福島判事を、司法当局はその後の人事でも冷遇し続けたのである。
 以後70年代にかけて、青法協会員裁判官への脱会工作や、会員裁判官の再任拒否、会員司法修習生への裁判官任官拒否や修習生罷免などの徹底した「青法協排除」が断行されていく。
 それと平行するように、73年以降、公務員の労働基本権を巡る最高裁判決で、従前のよりリベラルな解釈が次々と覆され、こうした反動的な判決が今日まで基本判例として維持されているのである。
 実際のところ、司法領域においても、50年代の「逆コース」の影響は及んでいたのであるが、司法における「逆走」が加速を始めるのは60年代以降のことであって、こうしたいわゆる「司法反動」は後れてきた「逆コース」と言うべきものであった。
 要するに、政治経済面では鈍化した「逆走」のスピードが、その遅れを補うかのように、法秩序の面においては、逆にスピードアップしたのが、この時期であったのである。

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