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死刑廃止への招待(第2話)

2011-08-27 | 〆死刑廃止への招待

死刑制度は冤罪救済の最後の門である再審制度と本質的に両立しない

 従来から、死刑廃止の重要な論拠の一つとして「死刑は冤罪の場合に取り返しがつかないことになる」ということが漠然と言われてきました。
 しかし、これに対して、死刑存置論の側から「冤罪の可能性一般は死刑に限らず刑罰全般についてまわることであるから、それだけでは死刑廃止の理由にならない」と反論されています。
 この反論は実はかみ合っていないのですが、かみ合わないのは「冤罪の場合に取り返しがつかない」という先の論拠に言葉足らずな面があるからです。つまり、ここで言う「取り返し」の意味が具体的に説明されていないのです。

 そもそも冤罪とは何かということについて法的定義はありませんが、下級審で誤って真犯人でない人に有罪判決が下されても、それが確定するまでは上級審で救済される可能性が残されていますから、真の冤罪は誤った有罪判決が確定してしまったところから始まると言えます。こうした場合に冤罪救済の最後の門として死活的に重要なのが、誤った確定有罪判決を事後的に覆して無罪を確定させるための再審制度です。
 再審制度はあらゆる受刑者に対して開かれており、もちろん無実を訴える死刑確定者も再審を請求することができます。ところが、死刑確定者には他の受刑者とは決定的に異なる困難が一つあります。すなわち、それは死刑の場合、ひとたび執行されれば受刑者は死んでしまうので、それこそ「取り返しがつかない」ということにほかなりません。
 この点、刑事訴訟法は「再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない。」と定めています(刑訴法442条本文)。なぜこんな規定があるかと言えば、再審請求の段階では有罪判決がすでに確定してしまっていることが前提であるため、無実を訴える当人が再審の請求をしたというだけでは刑の執行を当然に停止することはできないからです。
 このことは、懲役受刑者のように、刑の執行が刑務所内で本人存命の状態で行われる場合にはさほど問題を生じませんが、死刑の執行は即、死を意味しますから、再審の請求に刑の執行停止効がないと、再審請求後、裁判所の判断が出される前に執行された場合、冤罪救済のチャンスが永遠に失われてしまうわけです。
 このような不条理を想定して、実は先の刑訴法の条項には「但し、管轄裁判所に対応する検察庁の検察官は、再審の請求についての裁判があるまで刑の執行を停止することができる。」という但し書きが付いています。このため、従来、死刑確定者が再審請求を出すと、検察官がこの権限を行使して刑の執行を停止することが慣例となっているようです。
 しかし、これはあくまでも検察官の裁量による刑の執行停止ですから、1999年にはある死刑確定者が弁護士を通じて再審請求を出した直後に執行されてしまうという“事件”もありました。これはまさに不条理ですが、刑の執行停止が検察官の裁量である以上、再審請求直後の死刑執行も法には違反しないという二重の不条理があります。
 このような“事件”が起きた背景として、法務・検察当局では、かねて再審請求が死刑執行を回避するための方便として利用されているのではないかとの警戒心を持っていることがあるようです。そういう可能性も絶対にゼロとは言えないにせよ、死刑囚の再審請求を牽制する目的で見せしめ的に再審請求中の死刑執行を断行したのだとすれば、再審制度を無にするおそれのある不当な権力行使と言わねばなりません。
 ちなみに、無実を訴えている死刑囚に死刑が執行されてしまった後でも、遺族が本人の遺志を継いで再審を請求することもできますが(死後再審)、これは死後の名誉回復措置にすぎず、冤罪救済としての実質的意味を持ちません。

 以上、長々と説明しましたが、はじめに戻って「死刑は冤罪の場合に取り返しがつかない」ということの意味は明確になったと思います。
 ただ、そういう不条理が生じるのは先の刑訴法の規定が悪いのですから、死刑に限っては再審請求に刑の執行停止効を認める法改正をしてはどうかという提案もあり得るところです。
 たしかにそういう法改正がなされれば、先のような再審請求中の死刑執行という不条理はひとまず防ぐことができます。しかし、それだけで「取り返しがつかない」という問題が解消するわけではありません。
 再審を請求することができる場合というのは刑訴法で限定されており、中でも無実を訴えるにあたっては「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」と厳しく制限されています(刑訴法435条6号)。しかも、再審では請求人側に立証責任が課せられます。
 この「明白性」と「新規性」の二要件をクリアするのがどれほど大変なことか。わけても、死刑確定者が身柄を拘置されたまま、執行の恐怖におびえつつ、この二要件を満たす証拠を発見・提出するのは至難の業です。そのうえ、刑訴法は一度再審請求が棄却された場合、同一の理由での再請求を許さないため(刑訴法447条2項)、通常最終的に無罪を勝ち取るには、別の証拠を提出しつつ何度も再審請求を出してそのつど棄却され、数回目にしてようやく再審開始決定に漕ぎ着けるのです。再審がしばしば「開かずの門」と呼ばれ、慨嘆されてきたゆえんです。しかも、苦労の末に再審開始決定を勝ち取っても、今度は検察側が異議を申し立て、上級審で覆されてしまうことさえあります。
 従来、確定死刑判決が再審で逆転無罪となったケースは4件ありますが(免田〔めんだ〕事件、財田川〔さいたがわ〕事件、松山事件、島田事件)、いずれも複数回の再審請求を経ており、死刑確定から最終的に再審で無罪が確定するまでに30年前後もかかっているありさまです。
 本来からいけば、刑訴法上死刑執行は判決確定から6ヶ月以内に法務大臣の命令によって行うべきものとされていますが(475条1項及び2項本文)、この規定が実際上順守不能で守られたためしがないのは、もしこの規定を文字どおりに順守すれば、死刑囚の再審請求権を奪うに等しく、適正手続保障を定める憲法31条に違反する疑いも生じてくるからです。
 従って、先の刑訴法475条2項後段も但し書きを置いて、再審の請求がされその手続きが終了するまでの期間は6ヶ月の期間に算入しないと定めているほどです。この規定からすると、再審の請求があったときは死刑執行を停止すべきことが示唆されているとも読めるのですが、明確でなく、結局は裁量の問題になります。
 いずれにせよ、再審請求がたびたび棄却されると執行の可能性は高まってきます。先に紹介した再審請求直後の執行のケースでも、この死刑囚は過去六回の再審請求をすべて棄却されており、七回目の再審請求の直後に執行されているのですが、法務省ではそのようにたびたび同一の理由で再審請求が繰り返されていたことを執行の正当化理由として説明していたようです。
 しかし、史上初めて死刑判決が再審で無罪に確定した免田事件の免田栄さんも六回目の再審請求でようやく無罪を獲得していますから、六回や七回の繰り返しは珍しくもないのです。
 たとえ、再審請求に刑の執行停止効を認めたところで、再審請求が棄却されれば執行される可能性が復活する以上、死刑囚の再審請求権を守り通すには、結局死刑執行そのものを凍結してしまう以外にないのですが、これはもはや死刑制度の“死”を意味します。
 このように、死刑制度はいかにしても再審制度と根本的に両立しないものなのです。

 では、なぜ両制度は並び立たないのかということをもう一歩突っ込んで考えてみたいと思います。
 死刑とは受刑者を殺して二度と「取り返しがつかない」ようにする刑罰ですから、受刑者はその罪状とされる犯罪を犯した真犯人に絶対間違いないことが大前提となります。こうした絶対的な判断は、証拠に基づく判断とは異質のものです。なぜなら、証拠に基づく判断とは、法廷に提出された証拠による限り、被告人が犯人である蓋然性が高いという確率的・可謬的な判断にほかならないからです。
 それに対して、絶対的な判断は証拠よりもむしろ神や(しばしば神の化身ともされた)王のような無謬の絶対者の託宣なのです。実際、死刑が世界的にその全盛期にあった前近代以前の時代とは、神や王の名において裁判が行われていた時代でもあったわけです。「被告人を死刑に処す。」とは単なる司法判決にとどまらず、絶対に誤ることのない神や王の御意思であったのです。従って、それを事後的に覆す再審に付するようなこともあり得ませんでした。
 再審とは、確定判決を事後的に覆すものですから、それは確定判決といえども絶対的ではないということを前提としています。なぜ絶対的ではないかといえば、近代司法は証拠に基づく裁判を本質としているからです。証拠に基づく裁判とは、前述したように、確率的・可謬的な判断を要素としており、しかもそれは神や王ならぬ裁判官という間違いも犯し得る一介の職能―場合によっては陪審員とか裁判員といった素人―の下す判断にすぎないからです。
 一方で、死刑の全盛時代は自白がまさに「証拠の女王」として絶対的価値を与えられていた時代とも重なり、自白獲得のためには拷問も公式に許されていました。従って、死刑制度は自白偏重型の旧式な司法制度とも固く結ばれているのです。
 これに対して、近代司法においては、自白を絶対視せず、物証を重視し、自白も証拠の一つとして物証を含めた総合評価の一要素としかみなしません。従って、被告人が完全に自白し、起訴事実を全面的に認めている場合であっても、その自白は証拠の一つにすぎず、彼/彼女が絶対に犯人に間違いないという判断はしないわけです。
 実際、近年も法廷で全面的に起訴事実を認めて実刑判決を受け、刑務所で服役していた男性が出所後に真犯人の自白により無実と判明し、再審で無罪となった衝撃的事件が富山県下でありました。このケースは死刑でなく懲役刑相当の性犯罪であったため、男性は存命中に冤罪を晴らすことができたものの、もし死刑であったらすでに執行済みで彼はもはやこの世の人ではなかったわけです。
 ちなみに、日本ではこれまでのところ、死刑執行後に真犯人が出現するなどして冤罪が明らかになったケースは確認されていませんが、それは政府が過去の事例を遡って公式に調査し確認したことがないというだけのことで、非公式には、執行済みのケースで冤罪の可能性が指摘されてきたものがいくつか存在します。
 ともあれ、前近代の絶対主義的な司法の時代に花盛りであった死刑制度が証拠に基づく相対主義的な司法が確立された現代の再審制度と本質的に両立しないことは、こうして歴史的にも実証できることなのです。
 あえて単純化すれば、死刑を取るか再審を取るか、二つに一つなのです。現代に生きる私どもは後者を取ることをためらう必要はないように思われます。

 ちなみに、序文でも指摘した裁判員制度は法定刑に死刑を含む罪の裁判では原則として必ず適用されることとされています。しかも、裁判員が関与した一審判決は一般国民の意識が反映されていることを理由に、控訴審でも一審の判断を尊重するという運用指針が示されています。
 そうすると、この制度の下での死刑判決に対しては事実上、控訴(及び上告)を原則的に認めないに等しいことになります。そのような運用の違憲性という問題も生じてくると思いますが、それをさておいても、今後、死刑判決の誤りを正す道は事実上、再審に限られていくという事態も予想されますから、死刑判決と再審判決の矛盾はいよいよ露わになってくることでしょう。


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