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晩期資本論(連載第4回)

2014-07-17 | 〆晩期資本論

一 商品の支配(3)

ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。

 前回の末尾で、使用価値とひとまず分離される交換価値とは何者かという問いを残したが、そのマルクス的な回答がこれである。すなわち、商品の交換価値は各商品の生産に要する抽象的人間労働の量によって決せられるといういわゆる労働価値説の定式である。
 しかし、一つの工場内部でも複雑な専門分業体制が採られ、オートメーション化・ロボット化も進み、人間の労働自体がシステム管理的なものに変貌してきた現在、労働価値説の妥当性は揺らいでいる。

一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。

 商品の交換価値は、その商品の生産に要する労働時間が長いほど高価となり、短時間労働で大きな生産量を達成できるほど、廉価となる。しかしこれはあくまでも机上論であって、実際のところ機械化が高度に進み、生産力が飛躍的に向上した現在でも、長時間労働は解消されておらず、むしろ多労働・高生産というねじれ現象が起きているため、長時間労働かつ廉売という結果となる。

すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。

 商品の交換価値を形成するのは抽象的人間労働であるが、その使用価値を形成するのは具体的有用労働である。例えば、机の使用価値を形成するのは木材その他の材料から机という使用価値のあるモノを製作する具体的な労働であるが、机に交換価値を与えるのは、単にそれを製造する労働者の労働時間に還元される抽象的な労働である。
 このような労働の二面的な性格については、エンゲルスが追記した補注の中で、使用価値を作る具体的有用労働workと、交換価値を形成する抽象的人間労働labourを区別している。日本語には正確に対応する用語がないが、前者は労働、後者は勤労に当たるかもしれない。

ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは、人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくとも、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。

 商品=抽象的人間労働の価値化体だとすれば、商品は労働生産物でなければならない。しかし労働生産物でも自家消費する物は商品ではない。後者はそのとおりであるが、前者は現代資本主義にはあてはまらなくなっている。
 例えば、今や水までミネラルウォーターとして商品化されている。もっとも、ミネラルウォーターといえども汲み上げた水をそのまま販売しているわけではなく、殺菌・ろ過とペットボトル充填という最小限度の加工は施されていることを考えると、これも一種の「労働生産物」と言えなくはない。しかし水そのものは自然に湧出するものであるから、労働価値説を厳密に適用する限り、ミネラルウォーターは商品でないことになるが、現代資本主義では水もれっきとして商品化されている。
 また、コンピュータソフトのような知的財産もCD-ROMのような形態で物体化されて販売されるが、商品価値が付与されるのは非物体的なアイデアに対してである。アイデアも「知的労働」の生産物とみなすこともできなくないが、基本的には着想という作用の成果である。
 このように、商品化が拡大された現代資本主義社会では、労働価値説では説明し切れない商品―「準商品」といった新概念を作り出せば別であるが―が少なからず存在している。

労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。

 有用労働=workは、自給自足生活にあっても行われる人間の対自然的な働きかけであり、これが本来の意味における普遍的な労働である。しかし、商品生産が全面化し、衣食住のすべてを既成の商品でまかなう現代資本主義社会の生活では、この意味での労働を一切行わない生活様式も成り立ち得るようになっている。とすると、有用労働はもはや永遠の自然必然性ではなくなり、商品生産の前提となる抽象的労働=labourこそが必然化するという逆転現象が生じていることになる。


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