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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共通世界語エスペランテート(連載第3回)

2019-06-13 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論 

(2)世界語の意義②

諸民族言語との関係
 あらたな共通世界語エスペランテートは、既存の諸民族言語との関係をどうとるか。これについては完全な並存関係であり、エスペランテートは決して諸民族言語を排除しようとするものではない。これは、伝統的なエスペランティストの回答とおなじである。
 たしかに、エスペラント語をふくむ世界語は諸民族言語を排してそれにとってかわろうとする言語帝国主義的な野心とは無縁である。しかし一方で、世界語の創案は人類の言語的分裂状況を克服することにある以上、多言語主義を無条件にことほぐわけでもない。
 エスペランテートは諸民族言語と並存しながらも、世界共通語としての地位を獲得する努力を放棄するべきではない。そうした意味で、エスペランテートは諸民族言語の単なる補完言語ではなく、諸民族言語とも対等な地位をめざし、とりわけ全世界の義務教育課程への導入を推奨していくことになるだろう。エスペランテートにとっての理想の言語使用像は、各人にとっての母語となる民族言語とエスペランテートとのバイリンガルである。
 このことはエスペランテートが絶滅危惧言語の保存に無関心であることを意味しないが、絶滅危惧言語の保存を世界語の普及よりも優先するというかんがえにはたたないであろう。一方で、「国語」の名において多数派の民族言語や国策的にさだめられた標準語を全国民に強制する国語政策には明確に反対するであろう。

英語との関係
 エスペランテートは、本来民族言語の一つでありながら慣用上事実上の世界語の地位をしめる英語との関係をどうとるのか。これについて、伝統的エスペランティストのおおくは、現在世界をおおう「英語帝国主義」に批判的なスタンスをとるかもしれない。
 たしかに、英語の世界制覇は19世紀と20世紀、それぞれ英語を国語とする大英帝国とアメリカ合衆国という二つの覇権国家があいついで世界を支配したことの結果であり、そこに言語帝国主義のかげをみることはできるが、のちに検証するように、英語の世界的普及の要因には「帝国主義」だけでは説明しきれない言語学的な要素もみとめられる。
 実際上も、エスペランテートにせよ、エスペラントにせよ、世界語の普及をめざすうえでは、さしあたり学習書を英語で記述することがもっともちかみちであるという皮肉な現実も否定できない。そうした点をかんがえると、「英語帝国主義」批判についてはいくらか留保が必要であろう。
 まず英語を母語・国語としない社会において、英語を「国際語」として学校教育のはやい段階から一律に児童生徒に強制することには反対すべきであるが、一方でエスペランテートをして英語の地位にとってかわらんとする対抗的な発想はもたない。
 むしろ英語がひろく普及している現状を有利に利用しつつ、エスペランテートの普及をはかるほうが有効とかんがえられる。実際、エスペランテートの学習上も英語は各自の母語とならぶ対照言語として有益な一面をもつのである。
 ただ、エスペランテートが普及したあかつきに英語の運命が最終的にどうなるかについては関知しない。それはエスペランテートの普及度いかんにかかるであろう。エスペランテートが習得容易性という利点で英語にまさるならば、英語はおのずと英語圏における一民族言語としての地位にたちもどっていくはずである。 

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共通世界語エスペランテート(連載第2回)

2019-06-01 | 〆共通世界語エスペランテート

第1部 エスペランテート総論

(1)世界語の意義①

世界語の意義
 世界語とはなにか。本連載では「世界語」という用語が頻出するが、「世界語」とはなにかということをはじめにはっきりさせておく必要がある。ここに「世界語」とは、もっともせまい意味においてはエスペラント語そのもののことをさす。実際、日本ではじめてのエスペラント語入門書である二葉亭四迷の著作タイトルは『世界語』であったし、今日でももっとも強力なエスペラント語スポンサーの一つである中国でもエスペラント語を「世界語」とよんでいる。  
 これに対し、もっともひろい意味ではおよそ世界中で普遍的に通用する言語という趣旨で「世界語」という用語を使用することもできるが、この意味では、現時点においてもっとも世界に普及している英語も「世界語」にふくまれることになる。  
 しかし、本連載はエスペラント語を母体としながらも、エスペラント語から独立したあらたな「世界語」たるエスペランテートを創出することに主眼がおかれるのであるから、英語もふくめたひろい意味で「世界語」という語を使用することは混乱のもととなる。よって、このような広義の「世界語」も除外される。  
 結局、本連載でいう「世界語」とは、世界中で通用しうる共通語として計画的に創案された言語という中間的な意味でもちいられることになる。この意味で「世界語」というときは、同種の目的から創案された諸言語はみな「世界語」にふくまれる一方で、英語のように慣習的に世界で通用するにすぎない言語は「世界語」にはふくまれないことになる。
 ちなみに、この意味での「世界語」はエスペラント語をふくめ、すべて人工的な計画言語であることになる。これに対し、英語のように世界中で実際上通用するいわゆる自然言語を「事実上の世界語」とよぶこともでき、本連載でもしばしばこのように表現することがある。  
 ところで、「世界語」が公式的に公用語と指定されたばあいは「世界公用語」とよぶのがより正確であるが、現時点でそうした意味における「世界公用語」は存在しない。エスぺランテートが将来そうした地位をもつまでは「共通世界語」とよぶことがふさわしいであろう。 

世界語の必要性  
 ところで、以上のような意味での「世界語」はそもそも必要なのだろうか。エスペラント語を「世界語」とみなしてきた伝統的なエスペランティストにとってこのといのこたえは問題なくイエスであるが、他のひとびとにとって、このといは世界に数千ともいわれる民族言語が存在する人類の言語的分裂状況を通訳・翻訳という営為によって克服することができるかどうかという問題にかかわっている。  
 この点からいえば、各民族言語はその言語を共有する民族集団がながい年月をかけて独自に熟成してきた固有の精神文化である。したがって、ある民族言語はその言語を解しない他民族にとってはただの音声ないしは記号にすぎない。  
 そうした民族言語の持つ精神文化性は通訳・翻訳の本質的な不能性を結果する。すなわち最良の通訳・翻訳といえども、それはある民族言語を別の民族言語のもっとも近似的な表現で「解釈」しているにすぎず、本質的に逐語訳ができているわけではないということである。  
 その点、旧約聖書にみえる「バベルの塔」の神話は示唆的である。それによると、かつて人類はすべておなじ言語をはなしていたが、あるときひとびとが天までとどく塔をつくって一つにまとまろうとしたため、主がくだって言語をみだし、たがいにあいての言語を理解できないようにしたという。  

 この神話は実現不能な計画のたとえとして引用されるが、一方で人類の言語が相互に理解不能なほど分岐したことの由来譚としても解釈できる。主(かみ)がなぜ人類が一つにまとまることを忌避し、言語の統一をみだしたのかの解釈は種々ありうるが、世界語を創案するこころみはかみの意志にふたたび反するおこないだということになりそうである。
 たしかに、今日の人類は世界に拡散し、それぞれの精神文化の所産である多数の言語をもつが、情報通信技術の発展により、遠隔地のひとびと同士のコミュニケーションの可能性と必要性がたかまっている。コミュニケーション上の誤解はしばしば紛争のもとともなるから、世界語は紛争の防止にも寄与するだろう。  
 より積極的に、地球環境を保全して繁栄を持続させるべく、人類の統一がふたたび要請される時代でもあり、その際の共通的コミュニケーション・ツールとして、世界語の意義はおおきい。いいかえれば、実現不能な「バベルの塔」をたてることなく、世界中に拡散した多言語状況を維持したまま、共通の言語を共有する共同体を結成するのである。  

 その点、人工的に計画・創案された世界語は特定民族の精神文化に依拠していないため、世界中のだれもが容易に習得し、誤解なくコミュニケートすることを可能にするのである。そうした利点からしても、世界語の必要性は十分にみとめられるといえる。

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共通世界語エスペランテート(連載第1回)

2019-05-31 | 〆共通世界語エスペランテート

序文

 筆者はおよそ一年まえ、代表的な計画言語エスペラント語をベースに、これをより簡略化された標準世界語として考案した「エスペランテート」の概要を公表した。その際、つぎのような序文でその趣意をあきらかにした。

冒頭略

・・・・・・・・・簡略化されたエスペラント語は本来のエスペラント語とは相当に異なるものとなったため、エスペラント語の名称をそのまま使用することへの疑念が生じかねない。そこで、ここに改めて「エスペランテート」なる新たな世界語の創出を宣言することにした。  
 エスペランテート=ESPERRANTETOとは、エスペラントに小さなものを意味する接尾辞-etoを付した造語であり、直訳すれば「小エスペラント語」となるが、ここでは簡略化されたエスペラント語という含意を持たせる。  
 その場合、本来のエスペラントとエスペランテートは別言語なのか、それとも後者は前者の転訛言語なのかが一つの問題となるが、両者は文字体系や重要な文法にもかなりの相違が生じるため、同語族の別言語とみなすことにした。  
 その点、後に本論で検証するように、エスペラント語には16箇条にわたる変更不能な文法鉄則が存在しているところ、エスペランテートはこの16箇条にも変更を加えていることから、本来のエスペラントとは区別したほうが妥当と考えられる。  
 そのうえで、エスペランテートを世界中で共通の公用語として普及させるべく、いささか僭越ながら「標準世界語」と冠することとした。すなわち、連載タイトルの「標準世界語エスペランテート」である。本連載は、この新言語について、母体となったエスペラントと対比しながら概説していく。

 このような趣旨は現時点でも基本的にかわらないが、「標準世界語」なる命名はまさに僭越と感じられるため、「共通世界語」にあらためることにする。そのうえで、前回連載当時にしめしたエスペランテートの体系に一部変更をくわえる必要性を認識したことから、ここにあらためて新版を公表することとした次第である。

 そのこととは別に、当連載では―当連載限定で―日本語の表記に関しても一つの実験をこころみてみたい。それは、日本語のおおきな特徴である漢字の訓読を廃止することである。周知のように、日本語の標準的な表記法は漢字に二種類の仮名文字を併用するという異例の三文字併用主義である。  
 しかし、このことが外国人はもちろん、ときとして日本人自身にとっても文章表現上の障壁となっていることにかんがみ、特に法則性をかくおくり仮名の表記が個人によってまちまちとなりやすい訓読を廃することで、日本語表記法をいささかなりとも簡明なものとするこころみである。ただし、訓読廃止ルールには、つぎの三つの例外をもうける。

例外①: 「重箱/湯桶」「大文字/小文字」のような音訓折衷よみの漢字単語では、訓読漢字を表記する(「重ばこ/ゆ桶」「おお文字/こ文字」のような漢字仮名まじり表記はしない)。

例外②: 一つ・二つ・三つ・・・・のような和数詞は、漢字+おくり仮名で表記する。

例外③: 人名・地名のような固有名詞は、その固有の表記にしたがい、訓読を維持する。

 なお、このような訓読廃止の原則にも、難点がないわけではない。すでに既述部分にもあらわれているように、たとえば「かく」は「書く」「描く」「搔く」「欠く」のいずれなのか、同音異字語の判別が文字からはできず、文脈の解釈に依存することである。このような問題の検証は、日本語表記法を主題とするわけではない当連載の論外となるため、別の機会にゆずることとしたい。

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