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kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

堺・南宗寺史に書かれていた「徳川家康のお墓」

2017年02月09日 | 大阪
昨年にテレビを見ていて行きたいと思っていた所がありました。
それは、徳川家康のお墓があるという伝説のある堺の「南宗寺」です。


南宗寺へは、チンチン電車「御陵前」で降りました。

駅名の「御陵前」が気になって調べると、仁徳天皇陵へは当駅から東へ
徒歩20分で開業時は最寄駅だったそうです。


総門


甘露門(山門)国指定重要文化財

三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で、棟札により1647年の建立で
「甘露門」の額が掛かっています。


三好長慶

信長よりも20数年前に堺を拠点に畿内など13ヵ国を治め、天下統一をしたのが三好一族で堺の町を三好一族によって繁栄をもたらせました。父(元長)の追善の為に南宗寺を創設、三好一族の供養塔があります。


南宗寺史には


「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた家安が駕籠で逃げる途中、大坂方の猛将・後藤又兵衛の槍に突かれました。(駕籠の屋根部分に突かれた跡) 家康はそのまま堺まで落ち延びたが、駕籠を開けるとすでに事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との伝説が紹介されています。


「座雲亭」の下層は茶席になっており、元和9年(1623)7月徳川秀忠、同8月家光の、両将軍の御成の旨を記した板額が掛かっているそうです。


三好一族の供養塔の前に開山堂跡があり、徳川家康の墓がありました。
右側の石板には「無名の塔/家康サン鍩ス/ 観自在」と刻まれています。
(写真禁止なのでテレビより)


唐門 (国指定重要文化財)
唐門は詳細様式から、十七世紀中頃のものと見られ


瓦には「葵」の紋があります。


利休屋敷で使われていた「椿の井戸(椿の炭を底に沈めていたといわれる)」

南宗寺境内には、茶の湯を大成させた利休一門の供養塔、隣には師匠の武野 紹鴎(たけの じょうおう)の供養塔、当時互いに切磋琢磨して茶の湯の発展に尽くした津田一門・半井家一門のお墓があります。


文政年間、消失したものを明治初年に牧宗和尚(ぼくしゅおしょう)が再建。

●仏殿(国指定重要文化財)の天井には狩野信政筆による 八方睨 みの竜が描かれています。

●国指定の名勝「枯山水の庭」には、那智黒石の一角に紹興酒の瓶を伏せたものと言われる澄んだ音色を奏でる水琴窟があります。
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阪堺電気軌道(チンチン電車)1001形電車「堺トラム」

2017年02月04日 | 大阪
住吉大社から堺を散策することになり


阪堺電車(チンチン電車)全線1日フリー乗車券 TAKE TAKE (てくてく)
きっぷ(スクラッチ式 大人600円・小児300円)を購入しました。


「堺へ帰りたい」とすすり泣いたといわれる伝説のある妙国寺を後にして
チンチン電車に乗って、徳川家安のお墓がある南宗寺に向かいます。


妙国寺駅の時刻表を見ていた友人が突然「あっ!トラムに乗れる」の声
トラムのことは知らなかったので、もちろん乗る計画も無かったのですが
一瞬にして、超低床車両「堺トラム」に乗れる楽しみができました。(*^^*)


浜寺駅前方面から、妙国寺駅前まで乗ってきた電車と同じチンチン電車。


そして思いがけず乗れることになった、浜寺駅前へ向かう「堺トラム」です。

超低床車両1001形「堺トラム」は、和のイメージで車内の段差をなくした
バリアフリーに対応した誰もが利用しやすい車両になっています。

外観は、阪堺線の緑と千利休「わび」をイメージした白茶をベースに、シャンパンメタリックを配し、車体前後部に「堺刃物」をイメージした黒のラインがレイアウトされ、「茶ちゃ」「紫おん」「青らん」と呼ばれる3色があるそうです。


堺トラムの車内です。(ちょっと失礼して車内を撮らせて頂きました。)

路面電車なので従来通りの車軸付き台車で、直角カルダン駆動装置を装備して車体に懸架したモーターから自在継手で駆動する方式により、バリアフリー法に則した800mm以上の通路幅を確保しているそうです。
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堺・妙国寺には、毎夜「堺へ帰ろう」とすすり泣くソテツの伝説がある。

2017年02月02日 | 大阪

住吉大社からチンチン電車(阪堺電気軌道)に乗って妙国寺に向かいました。


妙興寺前 (阪堺電気軌道 みょうこくじまえ)


この道は、和歌山に通じているのですね。


「右 そてつ」は、 霊木「樹齢千百年余の妙国寺のソテツ」
(大正13年12月 国指定天然記念物)のことです。


土佐十一烈士墓所(堺事件)

堺事件 とは、慶応4年(1868年)2月に堺で起きた土佐藩士とフランス水兵との衝突です。堺の町を警護していた土佐藩士と上陸してきたフランス水兵が出くわした時に、言葉が通じないこともあり意思疏通ができない中いざこざとなって、発泡が起きフランス水兵が殺傷されました。

外交問題になり、フランス側からの最終交渉の結果賠償金の支払いと加担した20人の切腹を要求してきたが、慶応4年2月23日に双方立合いの下境内で行われたが、余りにも凄惨な光景だったため11人の切腹を最後にフランス側から中止の申し入れがあり、残った9人は土佐に流刑されたのですが12番目の橋詰愛平氏は生涯墓守りをしたそうです。

堺事件のことは知っていましたが、妙国寺に墓所があったとは驚きました・・・。


戦国時代、織田信長が堺に来たとき妙国寺は宿所とし見事な蘇鉄の枯山水を見ながら、利休などの接待を受けていました。堺の鉄砲のおかげで天下を統一し琵琶湖岸に安土城を築き、妙国寺の蘇鉄を移植させましたが・・・

毎夜「堺に帰りたい」とすすり泣く怪しげな声が聞こえ、霊気が城中を悩まし激怒した信長が部下に命じてソテツを切らせたところ、切り口より鮮血が流れ大蛇のごとく悶絶した如く見え、さすがの信長も恐れて妙国寺に戻しました。



霊気の蘇鉄は写真に撮ることはできませんが、お庭の立派な蘇鉄が撮れました。


階段の間を通った正面に拝観受付があります。


受付を済ませると
霊木の蘇鉄・蘇鉄枯山水の庭(駿府の国を再現した富士山など)、宝物資料館(土佐十一烈士の遺品・加藤清正奉納の宝剣・ルソン壺など歴史を感じる物ばかり)、土佐十一烈士のお墓、正岡子規の句碑、徳川家安の歌碑 を案内してくれました。


妙国寺に戻った蘇鉄は今にも枯れそうになり、日珖上人が読経したところ回復したことから「蘇鉄」という名がついたと言われています。

この伝説(黄字部分)は、江戸後期に書かれた武勇伝「英傑三国誌伝」にも登場し
織田信長を震撼させたソテツの伝説として伝えられています。

現在、妙國寺の大ソテツは樹齢1100年と言われ、大小120数本の幹枝を数え周囲は17m、樹高は5m以上にも。堺では唯一つの国の天然記念物に指定されています。
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住吉大社・何度も行っているのに知らなかった・・・「社・寺跡」

2017年01月31日 | 大阪
「すみよっさん」には子供の頃から何度も行っているのに
いつもお詣りして帰るだけだったので、初めての所だらけでした。(^_^;)))


浅澤社(あさざわしゃ)

浅澤社は住吉大社の南にある東大鳥居を出てすぐの場所にあります。
弁天さんともいわれ、芸能・美容の神として親しまれています。


浅澤沼の中にある「浅澤社」

奈良時代からこの付近は浅沼とよばれ、細江川が流れる「かきつばた」の
名所で、奈良の猿沢の池・京都の大沢の池と並ぶ名勝地だったそうです。

多くの歌が詠まれています。
万葉集・・・すみよしの 浅澤小野のかきつばた 衣に摺りつけ着む日知らずも
津守国助・・・・・・すみよしの 浅澤水に影みれば 空行く月も草がくれつつ


浅澤社の南側にある「ひとつばし」を渡った左側に見えているのが・・・


大歳神社(おおとしじんじゃ)です。


素盞鳴尊の御子の大歳神(五穀の収穫の守護神)

大阪商人の間では、集金(収穫)の守護神として信仰されています。
拝殿右横に、願いが成就するかを占う「おもかる石」があります。


神宮寺跡

平安時代には、有名神社のほとんどが「神仏混淆(こんこう)」だったその跡です。天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていました。

明治初年の神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸しましたが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存しています。今も伝わっている住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものだそうです。


楠珺社(なんくんしゃ)


ご祭神は宇迦魂命 (うがのみたまのみこと)

お稲荷さんです。境内の奥には、樹齢千年を超える楠 (くすのき) の大樹があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。その後、根元に設けられていた社にお稲荷さんを祭るようになったといわれています。


住吉大社の北側にある「大海神社」は、本社に次いで神格の高い神社です。


本殿は、本社の本殿と同じ住吉造で重要文化財に指定されています。


最後は、美しい姿の「 太鼓橋(たいこばし)」と呼ばれる反り橋です。

※ 他にも、五所御前の南側に日本三大舞台の一つといわれる重要文化財に指定されている「石舞台」があります。それは慶長年間(1596~1615年)に豊臣秀頼からの寄進だそうです。
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お初天神裏参道の「喜太郎寿し」に行ってきました。

2017年01月29日 | 大阪
私が行く機会のないお店に案内してくれると言うので付いていくと


えっ! お初天神に裏参道があったの・・・?
(写真:1月21日 土曜日)


小さい路地に、ところ狭しとお店が並んでます。


お店の中は、どこも満席のようです。


奥へと進んでいっても、人が途切れることがありません。
そして、20代~30代の女性が多いのに驚きます。


案内されたお店は、人気の「喜太郎寿し」さんです。

活トラふぐてっちりコースから、てっさ・湯引きの単品もあり
お造りの盛合せ、子持ち昆布・鱈の子。。。と種類も多くて好物ばかりです。

お寿司全品が250円均一(2貫で1貫位の小さいサイズ)で食べられるので
2人で7000円ほどのリーズナブルなお値段で頂けるそうですが・・・
よく食べる私たちはその倍以上の金額でしたが、リーズナブルで頂きました。
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住吉大社「京・江戸の書籍商が創建された 御文庫(おぶんこ)」

2017年01月28日 | 大阪
住吉大社は古く歌神とされ、『伊勢物語』や『源氏物語』など
王朝文学にも数多く登場する文学の神としても信仰されています。


御文庫

御文庫まえの説明書き には
御文庫(オブンコ)と呼ばれるこの土蔵造りの建物は享保8年(1723年)、書物を収める目的で創建された。施主は大坂を中心に京・江戸の書籍商たちである。この年、大坂の書籍商は排他的同業組合である株仲間の結成を公許されている。

これを機に仲間の店が上梓した書籍の成功を祈念して住吉神前に奉納した。それ以降、明治6年(1873年)の株仲間廃止まで、わずかな中断はあったものの奉納されて書物は膨大な数に上る。和書漢籍・洋装本を併せると一万点以上、数万冊に及び、研究者も注目する貴重書も多い。


御文庫の入口上に「文庫」の文字が・・・

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「学問の神様」と呼ばれる、菅原道真をまつる大阪天満宮境内の北西角にも「御文庫」と呼ばれる土蔵があり、大阪の出版元が江戸中期以来、奉納した和漢の書籍約10万冊が収められているそうです。

奉納の理由として、祭神への崇敬とともに大火への備えからであって、出版元が火災で版木を失った際は、奉納本を借り出して再版の原本にしたそうです。「かなりの出版元が両方の講に加盟していたことから、天満宮と住吉の距離を考えると、両方が同時に火事に遭う事は考えられず「原本を確実に残せた」といわれています。
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住吉大社・子宝の神さま「種貸社」は、一寸法師発祥の地

2017年01月24日 | 大阪
何度も行っている「すみよっさん」なのですが・・・


その住吉大社内に、今まで知らなかった「種貸社」がありました。


祭神倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)

種貸社が移設以前の元々の名前は「多米社」といって多米連の祖神を祭る
延喜式(10世紀の書物)に書かれている古い神社です。

創建は不明で、元は大阪市住吉区中居町中でしたが16世紀に火事があい
住吉大社の神饌(神様のご飯)を、この神社が持って行っていたことから
住吉大社に移設されたそうです。


私の知っている一寸法師の物語
子供のない老夫婦が子供を恵んでくださるよう住吉の神に祈ると、老婆に子供ができました。しかし、産まれた子供は身長が一寸(現代の3cm)しかなく、何年たっても大きくなることはありませんでした。子供は一寸法師と名づけられた。

ある日、一寸法師は武士になるために京へ行きたいと言い、御椀を船に箸を櫂にし、針を刀の代わりに、麦藁を鞘の代わりに持って旅に出ました[。京で大きな立派な家を見つけ、そこで働かせてもらうことになり、その家の娘と宮参りの旅をしている時に鬼が娘をさらいに来ました。

一寸法師が娘を守ろうとすると、鬼は一寸法師を飲み込んだ。一寸法師は鬼の腹の中を針で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げていきました。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振ると、身長が六尺(182cm)になり、金銀財宝も打ち出し娘と結婚して末代まで栄えたそうです。

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一寸法師が描かれた説明板には
昔話で有名な一寸法師は、室町時代から江戸時代にかけて成立したとされる物語集の「御伽草子」に出てくるお話で、その冒頭では住吉大明神にお祈りし、そのお陰で子供を授かるところから始まります。

この背景には、住吉大神の御加護を得て、無事に応神天皇をご出産になられた神功皇后様(第四本宮御祭神)や、薩摩藩主島津氏の祖となった島津忠久公が生まれた誕生石などの安産や子宝に関する説話が広く知れ渡っていたことが伺え、現在でも、ここ住吉大社境内の種貸社は、神種を授ける神様として、各種農業の種、子授けや商売の元手となる資本金、良い知恵を授けて下さる神様として篤く信仰されております。
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住吉大社の「千木鰹木のある公衆電話」

2017年01月18日 | 大阪

住吉大社の境内で見つけた、千木鰹木のある公衆電話です。

最近は公衆電話を見ることが少なくなってきていますが
住吉大社に溶け込んだ、素敵な公衆電話がありました。

※ 千木は屋根の両端で交叉させた部材で、鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材です。どちらも本来は上流階級の邸宅にも用いられていたそうですが、今は神社でしか見られませんね。

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千木は古代、屋根を建造する際に木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと見られ、千木・鰹木ともに本来は建物の補強が目的だったと考えられています。「鰹木」の名称は、形が鰹節に似ていることが由来のようです。

千木と鰹木は、●女性神の場合、内削ぎ(水平に削られる)で、偶数本。
●男性神の場合、外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)で、奇数本。
(お伊勢さんの内宮は内削ぎで、 外宮は外削ぎだそうです。)
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住吉大社・島津氏発祥の地「誕生石」

2017年01月17日 | 大阪

住吉大社の反橋をわたった左手に、垣に囲まれた「誕生石」があります。



説明版によると 丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕らえられ殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ほんだじろうちかつね)によって難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、雷雨に遇い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍らの大石を抱いて男児を出産した。

これを知った住吉の神人田中三宗は産湯を出して湯薬をすすめて介抱し保護したという。是を知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に薩摩・大隈二ヵ国をあてられた。これが島津氏の初代・島津三郎忠久公である。

この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ、「誕生石」の聖地に垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守りとする信仰が続いている。

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北条政子は、伊豆(静岡県)の豪族・北条時政の娘に生まれました。
そして頼朝を支え鎌倉幕府をつくるのに貢献しました。

頼朝が死んでからは「尼将軍」として幕府を引っ張って頼朝が死ぬと出家し
政子自身が「尼将軍」として、承久の乱を勝利に導きました。

この誕生石をみて、北条政子が周りの反対を押し切り源頼朝と結婚したことや
政子が妊娠するたびに浮気され、怒って浮気相手の家を襲撃させたことなどが
あったようで、愛するゆえに嫉妬深い北条政子だったことを思い出されました。
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住吉大社の「住吉鳥居(すみよしとりい)」

2017年01月14日 | 大阪
住吉大社には何度も行ってますが、今回は違う視点で見てきました。(^_^;)))


親しみのある「すみよっさん」と呼ばれている住吉大社に行ってきました。
鳥居前の路面に見えるのは、チンチン電車(阪堺電気軌道)の路線です。


鳥居の先に、住吉の象徴として有名で太鼓橋 (たいこばし) とも呼ばれる
境内に架かる住吉反橋(すみよしそりはし)が見えてます。


石の橋脚は慶長年間に 淀君が奉納したものであるといわれ
昔は、この橋の近くまで波が打ち寄せ られていたそうです。

川端康成が小説『反橋』で「上るよりもおりる方がこはいものです」
と書かれているように、最急勾配は48度もあるそうです。


住吉鳥居(すみよしとりい)※題額は陶製。有栖川宮幟仁親王の筆

鳥居の左右を支える柱が角柱で作られていることから「角柱鳥居」とも
呼ばれる住吉大社独特の鳥居は、柱・笠木・島木が角材になり貫が柱を
突き抜ける、明神鳥居と同じ形式となっているそうです。


第一本宮
 
現在ある本殿は全て1810年(文化7年)に造られました。第一本宮から第四本宮にいたる4棟の御本殿は「住吉造」と称し、神社建築史上最古の様式の一つといわれ 、いずれも国宝建造物に指定されています。(昭和28年11月14日 指定)


投げたお賽銭が刺さっています。

刺さったのは偶然だそうですが、本当にそうなのかな・・・?
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