京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

ぎぶみーちょこれーと!

2007-03-04 15:20:53 | 妻!日記
 みなさんは御存知ですか?

 戦後日本、食糧難に進駐軍。
 食糧が不足し、お腹をすかせた子供たちが、進駐軍のジープに群がり、
 「アイム ハングリー。ギブミー チョコレート!」
 そう叫び、進駐軍から、お菓子をもらう・・・
 ついでに言うと、親に見つかり、いさめられる・・・云々。

 妻!は、戦後も戦後、高度成長期を過ぎてから生まれましたから、当然見たことはありませんが。
 漫画「はだしのゲン」の中で、そのようなシーンを見たことがあります。
 進駐軍は、とても体格が良く・・・
 あるとき、ゲンが米軍キャンプに忍び込むと、乾パンや練乳など、滋養あふれた携帯食が山のように・・・
 それを持ち帰り、瀕死の妹の口に与えるが・・・

 そんな悲しいシーンを思い出します。

 それはそうと。
 こんな記事を、今日の新聞で見つけました。



 京都新聞・本日朝刊
 「はい応答室」    以下 注釈

 Q 子どものころ、進駐軍が配っていたチューインガムのメーカーやブランドを
   教えてください。
   敗戦のショックと食糧難に苦しんでいた時代、
   そのガムの味は夢のように感じました。
   その後、日本は復興し、飽食の時代になりましたが、
   もう一度、あのガムを口にしたいと願っています。
   (68才の男性)  ←両親と同世代だー!

 A 質問者の男性に伺うと、終戦後の1947,48年ごろ、
   小学生だった男性は近所の子どもたちと一緒に、米兵に何度かお菓子をもらったそうです。
   そのガムは緑色のパッケージで「ミックスジュースのような甘い味でした」といいます。

 以下、ガムの歴史などをまとめた「ザ・ガム大辞典」の著者、串間努さんによる解答。
 ・進駐軍の携行食には、リグレーというメーカーのスペアミントガムが入っていました。
 ・ガムがパイロットの耳鳴りを防ぐなどの研究があり、携行食に採用された。

 リグレー社によると
 ・第二次世界大戦時、販売していたスペアミント、ジューシーフルーツのガムをすべて米軍のために優先的に製造。米国内向けには、品質の劣る別ブランドのガムしか生産できなかった。
 ・当時のパッケージを問い合わせると、緑系はジューシーフルーツ(後に黄色)とダブルミント。質問者男性の覚えている味から、ジューシーフルーツではないかと推測できます。
 いずれのガムも現在も販売されており、輸入菓子店などで購入されます。

 質問者の男性談
 「敵対感情を持たせない工作だったのかもしれませんが、米兵はニコニコと笑いながら菓子をくれ、戦争が終わったと、ほっとしました。あの味は忘れられません。」



 漫画「はだしのゲン」のお話も、頭の中では「昔の話や!」と識別してしまっていますが・・・
 戦争が終わってから、たった60余年しかたっていないのですね。
 
 どんな味のガムなのか、今度専門店に行って、探してみようと思います。
 



 
 

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2 コメント

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戦後10年ほど (しぇる)
2007-03-05 17:24:24
して生まれたので、妻!様よりはるかに戦後に近い頃生きてたはずですが、ぎぶみーチョコレートは本や映画でしか知りません。
子供たちにとって、終戦は、日本が敗けた、占領されたという実感より、とりあえず戦争終わったし、飢えてた甘いものもらえるらしいぞ、という方が素直な感想だったのでは?

それにしても日本の終戦後もそうだったろうけれど、イラクでもアフガニスタンでも、内戦で荒廃したアフリカの国でも、報道カメラマンがくると、子供たちは周りによってきて屈託のない笑顔をみせてくれる場面によく遭遇します。
子供たちのバイタリティーはすごいです。
この質問をされた60代の方もそんな子供だったのでしょう。その後日本の復興を支えてきたのもこの世代の方々ですね。
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しぇる様 (妻!)
2007-03-06 19:53:15
戦前・戦中生まれの方々には、なんだかんだ言って勝てません。

母の子供時代の話。
おやつに、袋いっぱいのいりこを買ってきてもらい、姉妹で分けた話や・・・
大根飯の話。

じかに聞く話はないですが、戦争体験者のお話。
よく生きていたなあと、思うし、そんな経験したくないなーという思い。
何はともあれ、この人たちのおかげで、今の日本が豊かで、安全に暮らしていける・・・
「いまどきの若いもんは・・・」も、ご愛嬌と受け止めようと思います。
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