たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

マラリア罹患記

2006年08月25日 12時31分48秒 | エスノグラフィー
恐れていたマラリア熱に罹った。今から思えば、蚊対策が十分でなかったのかもしれない。しかし、フィールドに入った当初、どうしようもなく蚊に刺されて、防ぎようがなかったのもまた事実である。三日熱マラリア(Prasmodium Vivax)。ボルネオ島の別の地域で行った調査においても、マラリアに罹ったことがある(11年前の2月:チフスとの合併症)。今回、2回目である。

7月末、クチンで行われた国際学術会議の前後から食欲が無く、なんとなく身体がだるく、疲れやすかったように思う。クチンからフィールドへと戻るときに乗った、冷蔵庫のようにガンガンに冷房を効かせるエクスプレスボートの中で、最初に震えが来た。乗り継いだバスで発熱して、降車したときには、荷物も持てないほどぐったりしていた。到着したビントゥルの町で、いったん熱が引いたものの、深夜に、再び発熱とものすごい発汗があった。

<翌朝>、熱は引いたものの、夜には食欲が無く、再び発熱。町医者に診てもらうと、マラリアではないだろう、血液検査をしてみなければはっきりとは分からないけれど・・・と言われた。解熱剤、抗生物質などを処方してもらう。その後、体調は回復したかのように思えた。 <その翌朝>、起床時に体調不良と発熱。その後、上腹部が腫れるような感じが続いて、食欲が無く、ずっとホテルの部屋で横になっていた。

<その翌日>は、ホテルから一度食料を買いに外出しただけで、一日中気分がすぐれず、部屋の中で寝ていた。食欲が無く、上腹部の腫れの不快感を感じる。夜になって、体調が次第に悪化した。発熱、頭痛、上腹部の腫れがひどくて眠れなかった。
<翌朝>の夜明け前に、それらの痛みに耐えることができなくなる。日本の保険会社に緊急連絡して、病院を手配してもらうように依頼する。保険会社の手配で、ホテルのスタッフが迎えに来てくれたのは、最初の連絡から1時間ほど後のこと。苦痛で、立つことさえできなくて、スタッフに抱えられながら車に乗り込む。いくつかのクリニックを回った後、ビントゥル・ホスピタルの緊急外来に担ぎ込まれる。車に乗っていた30分間の苦痛は、地獄のようであった。ビントゥル・ホスピタルの医師は、私の経過説明を聞くなり、マラリアだと言った。ベッドに寝かされ、点滴を受け、だんだんと症状は落ち着いてきた。血液検査の結果、マラリアであることが確認され、入院することになった。だだっ広い部屋に、廊下を挟んで、8つのベッドが置かれている。部屋には冷房はなく、天井から扇風機が吊り下げられている。その入院初日は、点滴を5パック打ち、看護師が治療や検査に当たってくれた。マラリア患者は、夕暮れから翌朝6時までは、蚊帳を吊らなければならない。毎夜毎夜、蚊帳の中で、汗だくになりながらもがいた。

<入院2日目>、ふと斜め前のベッドを見ると、どこかで見たような顔を見つける。プナンの調査村から、50歳代の男性が、オイを伴って、結核で入院してきた。その日は、マラリア熱の症状は、次第に回復に向かっているかのように、私には思えていた。しかし、その夜、再び発熱。いったん引いたかのように思われたが、その後、上腹部が腫れて、熱が出て苦しくなった。次に目覚めたのは、夜の12時。身体の芯の部分から震えが出て、それが止まらなくなった。身体の中央部分から、手の足、足の先へと震えが伝わり、痙攣するように、ガタカタと震える。ベッドはぎしぎしと音を立てて揺れていた。その得体の知れない震えは、20分間ほど止まなかった。どうなるのかと心配した。じわじわと発熱してくるのが分かった。看護師に薬を与えられ、点滴を受けて、次第に回復するが、大量に発汗する。シーツと枕、寝巻きは、ぐっしょりと濡れて、気持ちが悪い。

<入院3日目>は、前夜に経験した、その震えの影響で、一日中体調がすぐれず、ぐったりとベッドに横たわっていた。点滴6パック。何もやる気がしなかった。この頃になって、医師と看護師、その他のスタッフの仕事が、ある一定のリズムをもって行われていることが、徐々に分かってきた。体温、血圧は、4時間ごとに看護師によって計られ、血液検査のための血は午前4時に抜き取られる。午前8時に、データをチェックして、医師が病状を判断し、退院などの措置を言い渡す。患者は、眠っていても4時間ごとに起こされる。身体を休めるというよりも、入院中は、「検査され、治療される身体」とでもいうべき状態に置かれていることになる。

<入院4日目>は、ようやく回復に向かう兆しが見えてきた。3日目に私の隣のベッドに、結核で入院してきたインドン(インドネシア人)の男は、5,6歳の姉弟(娘と息子)を連れてきた。看病してもらうためではない。姉弟の預け先がないから。姉弟の母親がいないので、一緒に連れてこざるを得なかったらしい。なにやら複雑である。その結核の男は、今回入院が3回目で、毎回名前を変えてきているらしい。看護師に、そのことを執拗に問い詰められている。その翌日、彼がパスポートを所持していないため、入国管理局の役人5人が呼ばれてやってきた。病室は、イミグレーションのユニフォームを着たものものしい男たちに占拠されたかのようである。その場で取り調べがなされ、その男は、娘と息子とともに、入国管理局へと連行されていった。入国管理局の役人たちは、まだ幼く、事情を飲み込めていない姉弟が、昼時に与えられた食事の皿を平らげるのを待ってから、連行した。父親を看病するのではなく、病院にまで連れてこられて、椅子の上で眠り、おとなしくしていた幼い姉弟たちが、不憫に思えた。ところで、4日目の血液検査の結果を見た看護師が、おそらく翌日には退院できるだろうと言った。

<入院5日目>、午前8時の医師の巡回時に退院が告げられることを期待したが、医師から発せられたのは、残念ながら「まだです」。私は、いつの間にか、マラリアを治癒させたいということよりも、とにかく早く退院したいという気持ちを抱くようになっていたように思う。その日は、病院内を少し歩いたり、売店に買い物に行ったりするまでになった。私の斜め前に寝ている、結核がひどくて入院してきたプナン人の男は、この頃、夜中に、大きな声で、宙に向かって誰かと対話するようなことが多くなった。彼は、いまさっきそこに「霊」がいたと看護師に訴えて、一笑に付されていた。「霊」との対話に夢中になったその男は、点滴のチューブをはずしてしまったことがあった。付き添うオイは、その結核患者からひとときも目を離さないように、看護師に命じられた。私は、夜中に、誰かと対話しているそのプナン人の男と目が合うことがあって、ゾクゾクしたことが何度かあった。

<入院6日目>、午前4時の血液検査の前に、すでに目が覚める。午前8時、退院があっけなく医師によって告げられた。諸手続きを終えて、昼頃に、私のマラリア入院生活は終了した。私の退院の直前に、私の調査村から子どもがマラリア熱で入院したという話を聞いた。どのあたりからマラリア患者が来ることが多いのかと看護師に尋ねると、後背地の地名がいくつかあげられた。私のプナン人の調査村の名前もあった。後日、調査村のプナン人から聞いたところでは、90年代以前には、マラリアはなかったという。その病気は、油ヤシ・プランテーションが建設されてから、当地で大流行しているという。プナン人にとって、マラリアは、開発によってもたらされる、「開発原病」なのである。さて、結核のプナン人男性も同時に退院し、われわれは、ビントゥルの町までタクシーで一緒に出た。オイは、まだ見えないものを見るという部分が治っていないので、村に帰る前に、アサップ(という町)の伝統医に診てもらうと言った。 とにかく、つらい日々であった。もう二度とマラリアには罹りたくない、と強く強く思う。

(写真は、ビントゥルの衛生局が、マラリア撲滅のためにロングハウス内で行う、オキシダール50のスプレー散布の様子)

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2 コメント

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大丈夫ですか (小野さやか)
2006-08-28 03:17:16
あのあと具合が悪くなっちゃったんですね!!びっくりしました。私たちは無事日本につきました。現地で出た発疹がひどくて帰国後医者に2回行きましたが注射をしても治らなかったので長袖で隠しながらカナダへ行きました。通訳はいないし、ホームステイ先のママは自殺未遂と流産未遂…ジャングル体験どころじゃない部分が多々…。早く報告会したいです
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Re: 大丈夫ですか (Penan\'s dog)
2006-08-28 12:08:07
Thank you! Yes, I got high fever just after you had left me in Sibu. I am OK now. N and S also got skin disease. I am now waiting for them to come here (Bintulu). See you!
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