とにかくすごいって聞いたので、ピンチョンの『V.』を20歳のころに読んだのだが、その読書の記憶はいま一つはっきりしないであるが、一つは、「全病連」という団体とかかわる、恋愛恐怖症のプロフェインという男の物語で、もう一つは、V.という女性の謎をめぐる物語で、登場人物が多く、謎が複雑に仕掛けられていて、その意味で、物語の秩序が失われていて、なんだか分からないが、その分からなさに「すごい!」と唸ってしまうような解読困難な文学なのだが、ピンチョンは俺ごときじゃ立ち向かうことができないだろうなと長い間放ってきたが、激烈なるエスノグラフィーを書くためには、いまのままでは到底できないかもしれないが、千に一つの可能性に賭けるならば、なんとかして通過しておかねばならないマストとして、というのは、文学は人類学に比べて膨大な、壮絶な物書きとしての実験精神と想像力が圧倒的に積み重ねられているからであり、おそるおそるピンチョンの『ヴァインランド』(2011-10 ★★★★★)を読んでみたが、1980年代のアメリカから振り返る、ラブ、ピース&ドラッグの1960年代的な日常が、とにかく入れ代わり立ち代わり登場人物が交替しながら、日本の忍者の話題やベトナム戦争の死者との対話などを転がしながら、ただただ見かけとしては脳天気に、皮相なレベルで疾駆していくといったお話であり、その意味で、ピンチョン・ワールドが炸裂しているのだけれども、なんなのだろう、現実の深刻さをせせら笑うような、この過激な非・秩序はいったい!、いや、たんなる思いつきながら、だからこそ、ピンチョン(現在73,4歳)には、どうか今後も生きながらえて、日本の東北関東大震災の時代について書いてほしいと思ったりするが、それはさておき、なんと、あとがきによれば、ピンチョンは、コーネル大で物理学を専攻したのち大学院で英文学を学ぶという迷った学生であり、そこで、どうやらあの『ロリータ』のウラジミール・ナボコフ先生に習っていたというのであるが、直観でいえば、ナボコフの大真面目な実践の先にほのかに感じられる滑稽さと、ピンチョンの凡庸な表層の出来事の連なりの向こう側にある複雑で深遠な人間的現実は、好対照をなしているように思われるが、ま、それもさておき、しばらくピンチョンは封印だな、でないと中毒になって、どこか別のところに連れて行かれる予感、というような、いやいや、もっともっと華麗なる文体で、ピンチョンはグイグイと読む者を引っ張ってゆくのだが、この調子を人類学に持ち込んだら、査読に通らないだろな、話は変わって、コルタサルもまたただ者ではない作家、短編の名手とされるが、『悪魔の涎・追い求める男』(20011-09 ★★★★★★)を読んでみたが、ずばり俺たちが目指しているのはこれだ!、とでもいうべき幻想性にあふれる、反・合理主義的な小説家が、彼・フリオなのだ、「夜、あお向けにされて」という、この上ない魅惑的なタイトルのついた短編では、バイクの事故にあった主人公が病院に運ばれて夢を見るところから始まるが、夢のなかで、彼はアステカの兵士から追われて密林を駆けるモテカの兵士になっており、その病院のベッドの上で、なんども繰り返しその夢を見続けて、ついに夢のなかでアステカの兵士に生贄にされそうになったときに、それが夢だと気づいて、夢から目覚めようととするのだが、そのときにバイクの事故のほうが夢であったと気づくという、現実と夢が最後にテンポよく反転するという、フリオのところに行って抱きしめてあげたいと思わせるような秀逸な、パーフェクトな物語であり、その本のなかに収められている別の短編「南部高速道路」は、ありえないことであるが、起こり得るかもしれないという想像をさせるようにしかけられた、実に巧みな、交通渋滞譚であり、昨年これを読んで以来、車を乗っていて渋滞に巻き込まれると、ふと、この奇特で無類のコルタサルの断片が頭をかすめるのだが(http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/2ff0df74fd859a4f45d01ede702f5c92)、コルタサルは、もっと広く読まれてもいいだろうと思って、2011年度の学部ゼミの読書計画の候補に入れたが、こりゃ、自分自身が解説できないなと思い直して(星野智幸の『俺俺』にした:これも解説は至難であるが)、いったい俺は何の研究者なのだろうと、最近思うこともあるが、そういえば、生態学者という本業を忘れて民族学的な興味に突っ走っている研究者に最近出会ったのだが、人は、こうして本分を失くしてゆくのかもしれないが、なに、俺は別段人類学でなくともいいと一部開き直りながら、最後に、桜美林文化人類学研究会(OSSCA)発行の『アントロポロギ』第2号が届けられたことに関して(写真)、関係者のみなさま、配布についてはもう少しお待ちくだされということを断っておいた上で、研究会の学生諸君の努力の果てに編まれた本冊子では、NHKのディレクター・国分さんと大阪大学の池田さんの対談がきわめて印象深い、というのは、ヤノマミという他者の美への恋に似た憧れという耽美的なロマン主義、圧倒的な他者に囲まれていたいという果てしない欲動、その裏返しの『プレジデント』誌に代表されるような近現代の価値観への嫌悪、ガルシア=マルケス的な世界への没溺、さらには、言葉の端々で、セクシュアリティの話題に触れないと自我のバランスが保てないかのような!語りの技量などなど、同年代で全国に100人はいないであろうと思われるような、異端的な逸脱系として、国分さんとものすごく多くの感性を共有していると強く感じるからであり、読み物としても、あの現代の未開の象徴たるヤノマミにも、ヤノマミ語で「ホトカラ」(天空)と名づけられたとツイッター・サイトがあり、半年間に7ツイートしか書き込みがないなど、興味深い話が満載されていて、国分さんが提供してださった、味わい深い表紙のヤノマミの料理中の写真とともに、立派な冊子に相成ったことをここに言祝いでおきたいと思う。