たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ロスト・イン・ザ・フォレスト~ヌーディストハンターの怪~熱帯のニーチェ~密林の悲しみ

2011年03月25日 22時01分41秒 | フィールドワーク

3月第二週、池澤夏樹の『静かな大地』(2011-10★★★★★)に浸りながら、わたしはマレーシアに入国した。それは、池澤夏樹のルーツともいうべき、彼の祖先たちの北海道開拓の物語、いや、読みようによっては、和人とアイヌの交わりをめぐる分厚いエスノグラフィーである。徳島との政争に敗れた淡路の武士たちは明治維新以後、蝦夷地の静内に開拓民として入植、宗形三郎と志郎の兄弟は現地のアイヌの人たちと仲良くなり、アイヌ語を学んだ後に、兄三郎は札幌の官園でアメリカ式の牧畜を学び、静内でアイヌの仲間たちとともに馬の飼育を開始する。そこで育てられた馬は軍馬として高い評価を得、中央財界の重要人物の目に留まって経営拡大を求められるが、三郎はその誘いを和人のためのものであると見抜いて断る。彼は、和人を裏切りアイヌの側に立つことを志して牧場経営を始めたのだった。やがて彼は和人たちから睨まれるようになり、さらには、妻の産褥死という不幸な出来事を経て、自ら命を絶つ。三郎を失った牧場はやがて没落する。三郎は、なにゆえに、そこまでアイヌに対して思いを寄せたのか。作中で、三郎は、『日本奥地紀行』の作者、イザベラ・バードに会って、アイヌは気高き人びとであるという言葉に我が意を得る。『静かなる大地』は、和人である三郎によるアイヌという他者の理解の物語であり、全体をつうじて、クマ送りをすることに対する真の理解などを含めて、自然のなかに生きるアイヌの人びとへの共鳴が聞こえてくる。昨夏訪れた日高に吹く涼しい風を思い出した。違いそのものに悪があると認識され、歪めて捉えられ、数々の苦境を経験したアイヌの姿に、わたしは、ふとプナンの姿を重ね合わせていた。

ビントゥルで、3月11日東北地方で起きた大地震の報を受け、生態学者Sさんとわたしは一日出発を繰り延べたものの、食料や備品を買い揃えて、チャーターした車でジュラロン川流域のプナンの村に向かった。行く先々で聞こえてきたのは、植樹した油ヤシの苗や稲などが、イノシシやサル類などの動物によって荒らされる被害の実態であった。サラワクの農村でも獣害は深刻化している。二年前に消失したプナンのロングハウスにはほとんど人がいなかった、人びとはビントゥルに働きに出て、ゴースト・ビレッジ化していた。ジュラロンのプナンは、古くにウスン・アパウの森を出た人びとで、 その後、焼畑技術を身につけ、イバン人と交わり、近現代の流れに乗っている。ある女性は、キリスト教に改宗して捨ててしまったのに、「カミ(baley)の話を聞いてどうするの?」ってわたしに問いかけたが、彼らにしつこく話を聞いていると、年寄りが、カミの話や雷に対する唱えごとなどを教えてくれた。「プーイ、やめておくれ、その音、風のカミ、嵐のカミ、わたしはあなたたちを呼んでいる、なぜ雷鳴をとどろかせて、強風を吹かせるのか・・・」。森のなかでは、動物の名前を言い換えるという慣わしも行われていることもわかった。直接的に動物の名前を呼ぶとそれが悪霊に聞かれて、狩猟の成功が阻害されるのだという。シカは長い太もも、マメジカは小さい足首・・・に言い換えるのだ。

ジュラロン川にある別のプナンの村に行ってみた。プナン語でlake amai medai、恐れを知らぬ男と称されるハンターがいた。足跡を追い、裸で獣を追い、時には森のなかで眠るという。そのハンターの切れ味やいかに。Sさんとわたしは、彼に狩猟に連れて行ってもらうことを願い出た。結婚後、ムスリムに改宗して、イノシシには触れられないが、お前たちが担いで帰るならばという条件で承諾したと思っていた。しかし、翌朝、恐れを知らぬ男は、わたしたちの金払いが不満だと狩猟行を断ってきた。代わりに、PがRを連れて、わたしたちを一泊二日の狩猟行に連れて行ってくれることになった。

ロングハウスを出て焼畑小屋で休憩したとき、わたしは、所持金全額とパスポートなどが入ったウェストバッグを置き忘れた。そこから45分ほど行ったところの稜線で休憩したときに、そのことを思い出した。わたしが小屋までウェストバッグを取りに帰ると言った時、13歳の美少年Rがついて行ってやると申し出てくれた。その言葉によって、Sさんから借りたGPSの使用法については、詳しく知らなくてもいいと思ったことが、後から響くことにそのときはまだ気づいていなかった。Rは、猟犬をつれて、わたしの先を行った、いや、駆けたのだ。凄まじい速さだ、1500メートル走5分を切るのではないかと思えるような速さで。わたしは死に物狂いでRについて行った。45分かかった道を20分弱で引き返し、木陰に平然と座っていたRは、通り過ぎようとするわたしに向かって、おっとっとそっちじゃねえよ、ここで待っててあげるから、と森のなかの道を指差した。わたしについて来てくれ、いや、わたしに代わって取ってきてくれと言えばよかったのかもしれないが、その時点でヘトヘトで頭が回転しなかった。一方で、もうこれ以上歩けないと感じながら、ゆっくりと、なんとか小屋までたどり着き、ウェストバッグを見つけると、そこにへたれ込みそうになったが、意を決して、Rの待つ場所へと踵を返した。しかし、ぼうぼうと生い茂った雑草をかき分けて進めど進めど、Rとの待ち合わせ場所には行き着かなかった。プナンがそうするように、ウーイと大声で叫んでみたが、応答はなかった。ギラギラと照りつける太陽の暑熱。Rと分かれてから小一時間、帰る道を見失ったのだ。そのころまでに、わたしは相当疲れていた。そのとき、赤い犬が見え、追いかけた。そうして、ようやく待ち合わせの場所にたどり着いたのだが、そこに、Rはいなかった。次の瞬間、一人で行ってみよう、そう思った。そこから沼地を越えるまで、自分の長靴の足跡を確認することができた。その先の川のほとりに、さきほど我々4人が立ち止まった場所があり、一気に登りつめる急勾配の道があるはずだった。しかし、立ち止まった川のほとりに行き着くことができなかった。川の流れを頼りにさ迷い歩いたが、どうしても見出せなかった。そのうち、それらしき場所から山を登ってみようと思い立った。いや、それよりも、借りているGPSだ。GPSを使おう。しかし、Sさんに尋ねなかったため、使い方がよく分からなかった。頂まで上ってみた。どうやら、そこではないらしい。引き返して沼地まで降りる。別のところから山を登ってみたが違う。今度は、足跡がついていた沼地にはどうしても戻ることができなかった。心身ともにぐったりと疲れてしまった。そのころまでに、3時間近く歩き続けていた。力が出なくなったいた。しだいに、物事を考えられなくなった。小川を見つけて、僅かな窪地に体ごと飛び込んで、体と頭を冷やした。はっきりしたことが浮かんできだ。道に迷ったのだ。今夜はビバークかもしれない。蛇や虫がウジャウジャいて、雨も降る密林で一晩しのげるだろうか。懐中電灯もライターもない。なぜか、ポール・オースターの自分自身を見失う物語や、元の場所にたどり着くことができないカルペンティエルの話が頭に浮かんだ。いま一度、冷静になって考えてみよう。なんとかGPSを使えないだろうか。いろんなボタンを押してみると、現在地を特定した上で、なんとか、ウェストバッグを忘れたことを思い出した場所に行けることが分かった。光が差したような気がした。飛び起きて、直線距離で、崖のような場所を駆け上った。GPSには700メートルとの表示。人の声がする。ウーイと叫んだ。応答があった。Rが、家まで帰って、彼の父親をつれてわたしを探しに来てくれたのだ。一目散にその場所を目指して駆け下りた。全身から力が抜けた。そこから半時間、最後の力を振り絞って、SさんとPの待つ狩猟キャンプへほうほうの態でたどり着いた。密林のなかを4時間近くさ迷い歩いていたことになる。道に迷うとは、自分自身を見失うことに等しい。GPSによって、わたしは助かった。

道を迷うことについて、それはよくあることだというような言い方をPがした。邪悪なものがお前を陥れたのだと言った。だから、森のなかではあまり喋るではないとも言った。森のなかで、いろんなことを喋ってはいけないというのが、基本にあるようだった。それは悪霊の聞くところとなり、わたしたちの意図は妨害されるのである。別のジュラロンのプナンは、料理をしているときに料理をしているという言葉を使ってもいけないと言った。それを聞いた悪霊が、料理を妨げるのだという。その後、狩猟キャンプで、ロングハウスから持ってきた白飯を食べようとしたとき、わたしは、道に迷った心身の疲れから、ほとんど食が通らなかった。夜になり、PとRは、これから出かけるが、お前たちには無理だから、ここでゆっくりとしておけというようなことを言った。わたしは望むところだった。その後、Pは、いきなりシャツを脱いで裸になった。赤いブリーフ一枚になった。まさかとは思ったが、その格好で、ライフル銃を肩から提げて、Rとともにハンティングに出かけた。 Rは、衣服を着けていた。Sさんとわたしは、斜陽学問としての人類学について、生物多様性で息を吹き返すかのように見える生態学について、われわれの研究プロジェクトについて、狩猟キャンプのなかで意見を交換した。その間、わたしは喉が渇いてしょうがなかった。コーヒーを三杯も飲んだ。雨が降ってきた。午後11時ころ、手ぶらでPとRはキャンプに戻った。シカ3頭に出くわしたという。Rは、一頭は父親だったと述べた。Pの懐中電灯が暗くて射撃できなっかったという。SさんがPに聞いた。なぜ裸で猟に出かけたのか?アップダウンが激しいからと、Pは答えた。わたしは、ヌーディストハンターを初めて見た。なぜ裸なのだろう。体の臭いを消すため、より動物に近づけるため?いや、精神性の象徴?恐れを知らぬ男も裸で獲物を追うという。モルッカ諸島の狩猟民も、裸で獲物を追うと聞いたことがある。ただ、かつて、プナンは、フンドシ一丁だったから、別段不思議ではないとも言えなくもない。あの赤パンツが強烈に目の奥に残っている。その夜、葉っぱとビニールシートで作ったキャンプは雨漏りが酷く、太ももから下がびっしょりと濡れた。翌朝気づいたのだが、わたしは、体じゅう、擦り傷と打撲だらけだった。道に迷っている間に負ったのだろう。

その後、いったんビントゥルに戻り、今度は単独で、東プナン人たちの住むバラム川流域にも、8年振りに行ってみた。朝7時のバスに乗り、ベルルからラポック、ロング・ラマを経て、乗り合いに2回乗り換え、最後は、車をチャーターして、ロング・ベディアンというカヤン人の村に、暗くなる前に到着した。そこから車でクラビット人が住む村に行き、ノマディックなプナンがいるというM川を目指したのだが、雨季で伐採道路の状態が悪く、今回は、遊動プナンに会うのを断念せざるを得なかった。ロング・ベディアンで泊まったホームステイには人がいなかった。夜には発電機が止められて、真っ暗闇だった。充電型の電灯を借りた。夢のなかに、数年前に鬼籍に入った父が出てきた。同じく8年振りにミリの町にも行ってみた。発展著しく、新しいビルがニョキニョキ立っていて、大きく様変わりしていた。今回の短期的な調査行の締めくくりとして、わたしの調査地であるブラガ川上流域のプナンにも会いに行った。プナンと言っても、近現代の流れに比較的容易に巻き込まれているジュラロンのプナン、たたかう先住民として権利を主張するために自己を高めてきたバラムのプナン、そして、近現代をあまり意識していないとでも言えるブラガのプナンなど、きわめて多様である。

わたしがブラガのプナンを訪ねたとき、彼らは、こぞって、いつものように家のなかにいた。おまけに男たちは、酒に酔っていた。わたしを連れて行った車のドライバーは、なんであんな働かないで暮らして行けるのかと、プナンがいないところで、わたしに尋ねた。改めて、そのように問われると、ブラガのプナンの非近代性=近現代への乗り遅れみたいなものが浮き立つ。しかし、それが、彼らだと言うしかない。マレーシア連邦政府の支援で、セメント作りの新しい家が建設されていた。そこには、台所があり、トイレもあった。水道が引かれる予定だという。彼らは、基本的に誰かが与えてくれるものに関しては、いっさい拒むことはない。しかし、行政がそうしてほしいというふうには、決して行わない人びとなのであるが。彼らに関して、つらつらとこれまで考えてきたことを述べれば、ブラガのプナンは、自然に対する怖れを知っている、自然の限界を知っているように思われる。けっして、大それたかたちで、自然の操作や加工を行わない。動物も人も同じような存在であると考えている。人は、大水や雷などの自然の脅威の前には、本来、まったくの無力である。そのことをよく知って、自然を改変したり、自らの思想のかたちをこしらえようとはしない。それらが、近現代に生きるわたしたちの企てなのだとすれば、そうした近現代の挑戦に、洟から、与するようなことなどプナンには及びもつかない。その意味で、プナンは、熱帯のニーチェたちなのではないか。おっと、枠を踏み外して、幻想的な文明論になりそう。やめておこう。

ブラガのプナンは、わたしの顔を見ると、数日前に聞いたのだが、日本の地震や津波は、お前のところでは大丈夫だったかと口々に聞いてきた。また、お前がいない間、お前がいなくて寂しい思いをしていたのだと、気後れすることなく、口々にささやいた。彼らのこうした情動を、わたしはいつも強く意識する。つい先ごろ読んだプナンの感情生活をめぐる論文の内容を思い出した。「喪名」という習慣。プナンは、人が死ぬと、その死者との関係によって、遺族は別の名で呼ばれなければならない。父を亡くした長男はウヤウ・・・。逆に、普段の生活で、父は長男に対して、ウヤウよ、と声をかけることがある。そのとき、長男は、父の死後に自分が呼ばれるであろう喪名によって、将来的に起こりえるであろう父の死を想起する。身近な人の死を土台にしながら、人に対する思いや気遣いを抱くことこそが、プナンの感情生活の基本にあると、その論文の著者は述べていた。そのとおりなのだと思う。よくよく付き合ってみるならば、そうした慣わしが、プナンの日ごろの心の持ち方と行動を方向づけていることが分かる。そうした密林の悲しみを今回も感じた。ここ数日、わたしは、そんなこんなことを考えていたような気がする。

(写真:GPS。動いた。人の声が聞こえる前に、記念撮影した。Sさん、ありがとう。科学万歳!)