たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

森のピューリタン

2007年04月21日 23時48分51秒 | 人間と動物

中沢新一が、カイエ・ソバージュのシリーズの高みへと到達するはるか以前に、すでに、その着想の幹となる部分を示していたことを、彼の作品をさかのぼるうちに発見した。「アイヌの熊送り」の映像を解説する彼の知性は、プナン人たちの狩猟をめぐる諸実践を理解するうえで、多くのインスピレーションを与えてくれる(「映像のエティック」、『東方的』せりか書房、1991年所収)。

中沢は、かわいがっていた熊を殺害し、神の世界に送り返すアイヌの熊送りのような儀礼は、人間の実存を裸にして、むきだしにしてしめそうとする表現なのだという。近代以降の社会では、人間の社会の心臓部を表現するような、そのような儀礼は行われなくなったものの、人間はあいかわらず、動物を(どこかで)殺害して食べ続けている。われわれ人間は、そのようなむきだしの動物殺害に向き合うことなく、原風景を意識下に押し込めてしまうことで、近代人の自我を形成してきたのである。

元に返せば、アイヌのイヨマンテ(熊送り)は、熊の姿で人間の世界に現れた神を見て、その神をふたたび神の世界に送り返すことであり、そのことによって、人間の世界は、人間を超越した存在、人間の外にあるものによって、支えられていることを、表現している。神は、人間に動物の肉を純粋に贈与して、人間を養う。しかし、人間には、その返礼として、いったい何ができるのだろうか。人間は、ちっぽけな存在であり、何もできない。人間が
そこで生存を続けていくためには、実は、<倫理>的な感覚を持つこと、いいかえれば、大いなる存在に対して礼儀正しくふるまうことくらいのことしかできないのである。

アイヌの狩猟者は、ピューリタンのように、修行僧のように、森のなかで動物を追う。しかしながら、彼は、欲望を押さえつけるようなピューリタンではなく、力をみなぎらせ、より高次の精神性を獲得して、神的なエネルギーを取り押さえるような存在となる。

プナンのハンターたちも、以下のような意味で、森のピューリタンではないだろうか。狩猟に出かける前から、彼は、多くを語らない(寡黙である)。動物と向き合い、それを手早く殺害した後、人びとのもとに運び込み、手際よく解体する。このとき、動物と戯れてはいけない。動物をからかってはならない。動物に対する人間の<倫理>的でない態度は、やがて、神が知るところとなり、神の怒りを引き起こすと考えられている。その結果、鉄砲水が起き、落雷が人を石に変えてしまわないために、人びとは、なるべく何も言わないで、獲物を解体し、そして料理して食べる。

アイヌの人びとは、<倫理>を積極的に表現して、熊送りの儀礼をおこなったが、プナンは、<倫理>を動物に対する正しいふるまいの中に表現しようとした。それらは双方とも、ごくちっぽけな存在としての人間が、地上で生存を続けていくための生命哲学
であり、ピューリタンである狩猟民の二つの異なる仕方なのではないだろうか。