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戦後ドイツ史 06慶応(文)

2011年12月31日 | 復習用入試問題
 次の文章を読んで空欄( A )~( E )に適当と思われる語句を記入し,下線部(F)~(J)に関連する設問に答えなさい。06年慶應義塾大学 文学部

 第二次大戦末期の1945年,ヒトラーはベルリンで自殺し,ドイツは国家としてほぼ壊滅状態となった。同年7月に行われた(F)ポツダム会談では,ドイツの非武装化や非ナチ化などと共にドイツの戦後処理について協議され,新たな民主主義的政府の樹立まではドイツを戦勝国によって占領管理すること,経済的にはドイツを統一地域として扱うこと,そして中期的には中央行政機関を設立することなどの協定が結ばれた。その結果,ドイツはアメリカ,イギリス,ソ連,フランスの四つの占領地区に分けられ,地理的にはソ連占領地区に属するベルリンも四国によって分割管理されることになった。しかし,連合国によるこの占領体制にはすでに戦後世界をめぐる東西対立が影を落としていた。
 大戦によって甚大な被害を蒙ったソ連はドイツに多大な賠償を求め,その占領地区では非ナチ化が徹底され,大土地所有の解体や大工業,銀行などの国有化が行われた。また,ドイツ共産党を中心に( A )が結成された。他方,英米仏の西側占領地区では,(G)主要な戦犯が裁かれた以外には非ナチ化は不徹底に終わり,資本主義市場経済を基礎とする経済復興が優先された。この経済復興を名目として西側三国は1948年,西側占領地区で通貨改革を行い,新通貨の導入を決定した。ソ連はこれを協定違反として非難し,東側占領地区に独自の通貨を導入するとともに,西側地区とベルリンとの交通を遮断した。西側諸国はこの危機をベルリンへの大規模な物資空輸で乗り切った。この間,西側占領地区では連邦制と議会主義を柱とするドイツ基本法が採択され,( B )を首都とするドイツ連邦共和国が成立した。これに対して東側占領地区では人民民主主義に基づく憲法が制定され,議会において( A )が独占的地位を占めるドイツ民主共和国が創設された。
 建国後の西ドイツに長期安定政権を樹立し,その発展を導いたのは,初代首相に選出された( C )であった。彼はドイツ連邦共和国を一貫して西側陣営の一員として位置づけ,その経済的発展と国際的地位の向上を図った。アメリカの(H)マーシャル=プランによる豊富な経済支援もあって西ドイツは飛躍的な経済発展を遂げ,その積極的な「西向き外交」によって1954年には国家主権を回復した。と同時に西ドイツは対ソ軍事同盟( D )の一員となり,再軍備の道を歩んだ。
 他方,東ドイツではソ連から多大な賠償を迫られ,基幹産業の施設の多くが現物賠償としてソ連へ搬出されるなどの悪条件の下で経済復興が行われた。中央集権化が進む中,重工業化や農業の集団化が行われたが,東ドイツは60年代始めにはもはや西ドイツのライバルではなかった。西ドイツの飛躍的な経済発展に自由と繁栄を期待し,多くの人々が四カ国占領体制の続いていたベルリンを経由して西側へ脱出した。この人口流出を食い止めるため,東ドイツ政府は1961年ベルリン市街地を貫通する壁を建設した。西側諸国はソ連との軋轢を回避したため,両ドイツは分断されることになった。
 この壁の構築により人口流出に歯止めがかけられた後,東ドイツの社会主義計画経済は軌道に乗りはじめた。すでに企業などの国営化を完了していた東ドイツは,「科学技術革命」や「新経済体制」のもと計画経済の緩和や能力主義の導入などによって社会的流動性を高め,ソ連東欧諸国だけでなく西側諸国との貿易を軸に経済成長を遂げた。70年代には生活水準も西ドイツには及ばないまでも,かなり向上した。この経済発展を背景に東ドイツは1973年西ドイツとともに国連に加盟し,74年の憲法改定では自国を独立国家として位置づけるまでになった。しかし,チェコ事件を始めとする東欧の混乱に対する警戒から経済改革は短命に終わり,統制経済が復活した。一党独裁体制のもとで経済成長と国民生活の向上とを共に追求するこの政策はやがて80年代に入ると大きな財政問題に直面する。
 他方,西ドイツでは60年代半ばになると経済発展にもかげりが見られ,戦後最初の不況を経験した。また,久しく続いた保守政治への不満が鬱積し,ヴェトナム戦争などをきっかけに学生の反体制運動となって噴出した。60年代末に政権に就いた社会民主党のブラントは西ドイツの歴史に新たな局面をひらいた。彼は積極的な( E )を展開し,東ドイツを独立国家として認め,東ドイツとの共存関係を樹立すると共に,ソ連東欧諸国とも関係を大幅に改善した。また(I)ブラントはドイツの戦争責任の問題とも積極的に取り組んだ。ワルシャワを訪問した彼がユダヤ人犠牲者追悼碑の前に跪き,首相として謝罪の意を表した姿は全世界に深い感銘をあたえた。ブラントの後を継いだシュミット社会民主党政権は,石油危機による世界的経済不況や,過激派のテロなどに直面したが,大きな混乱を回避し,ブラントの路線を継承しつつ経済的にも安定を保った。
 80年代半ばになると,これまでの東西ドイツの歴史は,ソ連共産党書記長ゴルバチョフの登場によって大きく転換することになる。ゴルバチョフは(J)ソ連の民主化を推進し,軍事力を削減して経済再建をはかるなどの大規模な改革を実行したが,その改革は東欧世界にも決定的な影響をあたえた。そのような影響のもと1989年の夏,ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開くと,東ドイツではハンガリーを経由して西側に脱出するひとびとが増え,国内でも民主化を求める大規模なデモが行われた。東ドイツ政府は新政権を発足させたが,事態を収拾できず,流出するひとびとの数は増大し,ついには東西ドイツ間の交通制限が解除され,ベルリンの壁は意味を失った。東ドイツ政府は事実上統制力を失い,ソ連も東ドイツへの軍事的影響力の行使を放棄していたので,西ドイツのコール政権は一挙に統一に向けて動き,1990年10月,西が東を吸収合併するかたちでドイツは統一された。

設問(F) ポツダム会談に参加したアメリカ合衆国の代表は誰か。

設問(G) 連合国が主なナチス戦犯を裁いたこの裁判を何というか。

設問(H) この通称「マーシャル=プラン」の正式名は何か。

設問(I) ドイツの戦争責任について,ブラントの精神を継承し,「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在に対しても盲目になる」という名言を残したドイツの大統領は誰か。

設問(J) ゴルバチョフのこの改革を何というか。


【解答】 
(A) 社会主義統一党 (B) ボン
(C) アデナウアー (D) NATO [北大西洋条約機構]
(E) 東方外交 (F) トルーマン
(G) ニュルンベルク裁判 (H) ヨーロッパ経済復興援助計画
(I) ヴァイツゼッカー
(J) ペレストロイカ


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