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魏晉南北朝 03早稲田(法)

2014年11月11日 | 復習用入試問題
 中国の魏晉南北朝史に関する以下の文を読み,それぞれの設問に対して解答を一つ選び,その記号を答えよ。
 
 後漢王朝の滅亡によって中国史は分裂時代に入り,再び統一されるのは隋によってである。後漢末の事実上の分裂から数えるとほぼ400年にもわたるこの大分裂時代は,中国史に未曾有の混乱と変化をもたらした。そしてその直接の契機となったのがa黄巾の乱である。b当時,納税・軍事等の担い手であった自作農も豪族の土地兼併によって没落する者が増加し,外戚や宦官をめぐる政治的混乱がそれに追い打ちをかけた。こうした社会不安を背景にして,2世紀後半,病気治療による救済を説く新興宗教教団が興った。その一つである太平道の教祖張角は,184年に数十万の信徒とともに蜂起した。
 その渦中で事実上後漢王朝が崩壊すると,群雄割拠の状態となり,やがてc魏・蜀・呉が分立抗争する三国時代となった。この分裂は晉(西晉)によって一時的に統一された。しかし八王の乱や農民反乱によって晉は動揺し,dそれに乗じた匈奴が洛陽および長安を占領してこれを滅ぼした。帝室の一族の司馬睿は建康で即位し,晉を再建した(東晉)。
 八王の乱のさい,諸王は北方・西方の非漢人の武力を利用したので,その内乱はこれら諸族の侵入を誘発することになった。e匈奴の動乱はその端緒となり,諸族が一斉に華北へ侵入した。かくて,f江南に再建された晉に対し,華北には“五胡十六国”と総称される非漢人の地方政権が次々と興亡し,中国は南北に分裂した。華北は439年に鮮卑族の建国した北魏によって統一され,g孝文帝のとき一連の中国化政策が行われた。しかしh北魏はその後内部抗争によって分裂を重ねていった。一方,東晉もその部将によってのっとられ,以後は短命な王朝が交替した。北周の外戚楊堅は禅譲によって隋を建国し,大興城を都としてi最後の南朝を滅ぼし,長い分裂時代に終止符が打たれた。

設問1 下線aの黄巾の乱を主導したのは太平道であるが,反乱と宗教の関係を示した次の記述の中で誤っているものはどれか。
� 張角は蜂起後も教団を保持し,そのため太平道は五斗米道と共に道教の源流と なる。
� 紅巾の乱は元末の白蓮教徒を主力として行われた農民反乱である。白蓮教は仏 教的要素の強い民間宗教である。
� 清は乾隆時代を頂点としてしだいに体制がゆるみ,各地に反乱が起こった。18 世紀末に起こった白蓮教徒の乱はその最大のものである。
� 山東で発展した義和団は白蓮教系の宗教を奉じる宗教結社で,“扶清滅洋”を 叫んで外国人・外貨の排斥やキリスト教会の破壊を行った。

設問2 下線bの自作農創設のために,歴代の中国王朝はさまざまな土地政策を試みたが,次の記述の中で誤っているものはどれか。
� 前漢末に大土地所有の制限と小農の保護を目的とする限田法が発布されたが, 効果はなかった。
� 漢代の屯田制は辺境防衛を兼ねて西北辺境で行われたが,三国魏のそれは内地 における土地制度である。
� 北魏は均田制を実施したが,隋唐に継承された均田制と異なり,妻・・耕 牛へは給田されなかった。
� 西晉で実施された占田・課田法は,土地所有の制限と税収の確保を図ったもの である。

設問3 下線cの三国時代に関する次の記述の中で誤っているものはどれか。
� 曹操は華北を制圧したが,赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍に大敗し,政局は 天下三分の形勢となった。
� 曹丕が後漢最後の皇帝の禅譲を受けて魏を建国すると,劉備も四川の成都で帝 位について蜀を建国し,諸葛亮を宰相に任じた。
� 劉備が帝位につくと,孫権も帝位について都を建業,今の広州に定め,そのた め江南の開発が進展した。
� 三国時代が開始されたころ,西アジアではササン朝ペルシアが建国された。

設問4 下線dの事件は何と呼ばれるか。
� 淝水の戦い � 永嘉の乱 � 靖康の変 � 靖難の変

設問5 下線eの匈奴の変遷に関する記述の中で誤っているものはどれか。
� 前漢の武帝の反撃によってゴビ以北に後退した匈奴は,前1世紀になると内部 争いで東西に分裂し,漢に服属した東匈奴は1世紀中ごろさらに南北に分裂し  た。
� 西晉を滅ぼした匈奴は南匈奴の一部で,彼らは五胡十六国時代にいくつかの地 方政権を建てたが,北魏の華北統一後,漢人に融合・同化した。
� 北匈奴は後漢の攻撃を受けて敗れ,一部は西方に移動してイリ地方に移り,2 世紀中ごろカザフ草原に移動した。
� 北匈奴の子孫といわれるフン族は,4世紀に南ロシアに現れ,西ゴート族を服 属させ,さらに東ゴート族に迫って“ゲルマン諸族の大移動”のきっかけとなっ た。

設問6 下線fの江南に興亡したこの時期の諸王朝を“六朝”と総称し,高雅な貴族文化が開花したことで知られる。その六朝文化に関する記述の中で誤っているものはどれか。
� 文体として四六駢儷体が発達し,梁の昭明太子によって『文選』が編まれ,詩人 として陶淵明や謝霊運などを生み出した。
� 絵画では「女史箴図」をえがいた顧之が画聖と呼ばれ,書では王羲之が書聖 と呼ばれた。
� 仏教では法顕が陸路インドに行って仏教をおさめ,帰路シュリーヴィジャヤで 『仏国記』(法顕伝)を著わした。
� 儒教では漢代の訓詁学に替わって老荘思想で経典を解釈することが流行し,正 史では『後漢書』・『三国志』などが著わされた。

設問7 下線gの孝文帝による政策や事業ではないものはどれか。
� 現在の山西省大同付近に雲崗石窟を開山した。
� 財政確保・治安維持のため三長制を制定した。
� 鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ,鮮卑の服装・言語なども禁止した。
� 平城から洛陽に遷都した。

設問8 下線hの分裂により北朝最後の北周は隋にのっとられてしまうが,その後北方諸民族は自らの社会体制を強く保持したまま中国的王朝を建設するようになる。これを“征服王朝”と呼ぶが,それに該当しないものはどれか。
� 遼 � 金 � 西夏 � 元

設問9 下線iの南朝の興亡順で正しいものはどれか。
� 陳宋梁斉 � 斉宋陳梁  � 梁陳斉宋 � 宋斉梁陳

正解
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