FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

王政復古~名誉革命期のオランダ・長老派議会との関係

2023年05月30日 | 高3用 授業内容をもう一度


王政復古期の英議会とオランダの関係変化

 1660年代王政復古前半の10年間は即位したチャールズ2世が長老派議会とある程度協調関係を築いています。議会は「議会重商主義政策」を展開するためにオランダに挑戦してきました。1651年「航海法」で中継貿易により利益を上げているオランダ船をイギリスが関係できる貿易から除外しました。これに反発したオランダと1652年から英蘭戦争が始まります。内政面でも長老派議会は議会から独立派を追放しピューリタン勢力も排除している時です。彼らからの抵抗を受ける中で国王と協調路線をとっています。もちろんピューリタン革命中フランスに亡命していたチャールズ2世にとって1660年「ブレダ宣言」を出して王政復古を果たしたといっても絶対王政への回帰は程遠い状況で議会との協調は不可欠でした。

 1670年チャールズ2世とルイ14世の「ドーバーの密約」で状況が大きく変わります。ドーバー海峡は英仏間の海峡です。チャールズ2世はフランスの軍事的支援が期待できるようになり議会に対して協調から抑圧に転換します。
1648年ウェストファリア条約でカトリック勢力の期待は神聖ローマ皇帝から仏王ルイ14世に移っています。カトリック勢力の旗頭的存在を自覚するルイ14世は「ドーバーの密約」で新教国のイギリスに対してカトリック化を約束させることに成果は大きいでしょう。ルイ14世は領土的意欲からも新教国オランダに攻勢を仕掛けます。1673年オランダ侵略戦争です。これに呼応してチャールズ2世は国教会を堅持する長老派議会に宣戦布告しカトリックを容認する「信仰自由宣言」を出し海上からオランダを攻撃するために海軍をオランダに派遣します。1672-74年の第3次英蘭戦争です。

チャールズ2世の動きに対して議会派分裂します。海軍派遣を認め商業上のライバルであるオランダを攻撃して実利を得ようとする議員を「トーリー党」といいます。一方、短期的な実利より「議会主権」を尊重する姿勢を見せた議員を「ホイッグ党」と呼びます。彼らが主体となってジェームズ2世の娘メアリをオランダ総督ウェレムに嫁がせました。オランダとホイッグ党議会との「新教徒」同盟の成立です。
しかし、分裂絵いていた議会が一つにまとまるきっかけは新王ジェームズ2世の子がカトリック教徒として養育されることが明らかにされた時です。イギリスはフランスと連動する「カトリックの国」になり仮に商業面でオランダに勝利しても、フランス財務長官コルベールが主導する重商主義政策の後塵を拝すことは明らかです。
このような状況下でトーリー党議員がホイッグ党議員に歩み寄り1688名誉革命が成功しました。



最新の画像もっと見る