goo blog サービス終了のお知らせ 

Reflections

時のかけらたち

荻外荘のお雛様 ・・・ Hina Dolls at Tekigaiso

2025-03-08 23:56:20 | seasons

3月1日

雛祭りの季節が節分を過ぎるとあっという間にやって来ました。そして通り過ぎて行きました。
少し暖かかった土曜日の3月になったばかりの土曜日に風邪も治りつつあったので、荻窪散歩を
することにしました。娘がインスタで荻外荘をみつけたからです。

整備が整って昨年末から一般公開が始まったばかりの旧近衛文麿邸です。
荻窪は杉並区で育った私にとってとても近い場所でもあり、独身時代も結婚してからも日常で
買い物や習い事でも行っていた場所で懐かしいところです。それでも市場みたいなところしか
行っていなかったので、今回近衞邸に行った時、その近辺を歩いて、今回の荻窪案内で見た
「西の鎌倉、東の荻窪」と言われていたと書かれていたことに納得しました。住宅街に入ると
まさかの豪邸が並び、ここが近衞邸かしらと思ったところが普通の家だったりして、田園調布
とは違った歴史のあるお屋敷がいくつもありました。

荻外荘(てきがいそう)は、大正天皇の侍医頭(じいのかみ)を務めた医師・入澤達吉が、昭和2年(1927年)に、荻窪の、
空気清涼な場所に育つアカマツのある土地に建てた別邸です。設計者は日本を代表する建築家・伊東忠太。入澤は、庭に
カエデもあったこの別邸を、「楓荻荘(ふうてきそう)」と呼びました。その後、内閣総理大臣となった近衞文麿が、
この別邸と周囲の環境を気に入り、健康の相談相手であった入澤から譲り受け、昭和12年(1937年)から住みはじめました。
「荻外荘」という呼び名は、近衞の後見人であった西園寺公望(さいおんじ きんもち)が、荻窪に移った近衞の体調良好に
祝意を込めて命名したといわれています。心身の休養のために「荻外荘」で暮らすことに決めた近衞でしたが、次第に、
国家の重要な会談の場として使用するようになりました。

終戦後、近衞文麿が荻外荘で命を絶った後は、ご家族が静かに暮らしていました。家主であった近衞文麿の次男が逝去すると、
まちで荻外荘保存の声が上がりました。区が、地元10町会長連名で出された要望書を受け、荻外荘の取得に向けて動き出した
のが平成24年(2012年)です。平成26年(2014年)に、区は荻外荘の土地と建物を取得し、平成28年(2016年)には、日本の
針路を左右するような会談が数多く行われた場所として、国の史跡に指定されました。

荻外荘を、近衞文麿居住当時の姿に復原整備する取り組み、「荻外荘復原・整備プロジェクト」により、令和6年12月、荻外荘
公園が開園。地域発意のプロジェクトの成果です。ぜひ足をお運びください。

                                                 杉並区のHPより

荻窪三庭園 荻外荘

 

もともとは医師入江達吉が義理の兄弟である建築家・伊藤忠太に設計してもらって余生を過ごす場所で
あったがもともと知り合いだった近衛文麿にゆずったと説明にありました。譲ったのちも近くに住んで
いたとのこと。この場所をとても気に入っていたのだと思います。

近衞の屋敷となった荻外荘は戦前の戦争に突入していった歴史の舞台となりました。国際的に追い詰められて
行ったとはいえ戦争勃発に至った日本の暗黒の歴史の綴られていった場所です。それもそんなに遠くない時代
のことです。いろいろ見ていると戦前は貴族院議員という世襲制があり、のちに音楽家の兄弟が兄は政治家には
向いてなかったと思うと語っていたとの記事がありました。近衞家と細川家のつながりとか華麗なる公爵家の
姿が浮かび上がりました。

私にとっては建築を見るのが好きなだけなのですが、やはり歴史抜きには考えられない建物でした。

中に入ってから係の方に入り口はもともとの玄関ではなく、豊島区に移築されていた建物を再び元に戻したという
経緯があったとの話でした。そういえばいつも散歩して目白の方に歩いて行った時も近衞家のなごりがどこかに
ありました。

 



荻窪駅から商店街を抜けて、川沿いに歩く道を選びました。
その道沿いに結婚したての頃、義理の兄がすんでいたことのあるマンションの近くの
中華屋さんによく行ったことを思い出しました。道角から眺めてもそれらしい店はなさそう・・
娘がピアノを習っていた先生がバロックのコンサートをよくやっていた音楽喫どこかにあったはずと
記憶がいろいろよみがえってきます。




少々道に迷った後でたどり着きました。朝早いのに団体が来ていて、あまり慣れていない窓口が
混乱していました。


螺鈿のテーブルが美しく・・・












重要な階段も行われた部屋はモニターがあるのでそのモニターが撮影禁止で、多くの人が休憩していたので
写真を撮ることができませんでした。

戦争抜きには考えられない家ですが、今も世界で起こっている戦争や、アメリカがロシア化しそうでなにか
再び怖い世の中になってきています。時代は進んできているのかと思っていたけどとんでもないことになって
きています。


正面に戦争犯罪人となった近衛文麿が自決した部屋が残されています。




納戸の中を外から撮りました。




恋愛結婚だった毛利家から嫁いだ夫人のお雛様が飾られていました。





五人囃子があまりにも生き生きしてかわいかったので再びアップしました。


帰ろうと思った時に出口で本当の玄関だった場所を教えてもらったので、再び移築して戻ってきたという
玄関や応接室を再び見に行きました。




やっぱりここがベストショットの場所ともう一度写真に撮りました。




外を大回りして庭に出ました。




本来の玄関があった所です。



素晴らしい川沿いの高台に建った家でした。


帰り道にフランスのお惣菜の店。確かフランス人が昔駅の近くでやっていたと思うけど・・




お腹がすいていたので駅近の鳥良で親子丼を食べました。特別美味しくもなく・・




結婚当初はよく行っていた太田黒公園。人が来ると庭がわりに使っていました。
ここも懐かしい場所です。






今回は角川庭園はパスして帰りました。


暑かったのでテイクアウトで桜色のフラペチーノを買って帰りました。


March 1  2025       Ogikubo

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今年のひな祭りはシャンソン... | トップ | なつかしい曲たち ・・・ T... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

seasons」カテゴリの最新記事