今回の冬季オリンピックほど選手それぞれの個人のドラマを感じたオリンピックはありませんでした。
スポーツに向かう姿勢とか、奥行きを感じました。東京オリンピックの頃から選手間の国を超えた友情も
感じられました。
印象に残る何人かの選手がいましたが、羽生君に絞りました。
羽生の冬が終わりました。
そして「春よ、来い」
思いを込めてピアノと息の合った「春よ、来い」を美しく舞った羽生結弦でした。
NHK | 【実況なし】羽生結弦 エキシビション「春よ、来い」 | フィギュアスケート | 北京オリンピック
上のYouTubeをクリックすればエキジビジョンが見れます。
演技後に大会を振り返り「いろいろ深く考えさせられました。みなさんの記憶にある羽生結弦は成功している自分が多いかも
しれないですけど、ここまで競技をするにあたってどん底を何回もみてきました。今回、大人になって、人生って報われることが
全てじゃないんだなと。ただ、報われなかった今は報われなかった今で幸せだなと。少しでも前を向いて歩いていけるように
頑張っていきたいと思います」と語った。 2022年2月20日15時30分]日刊スポーツwebより
羽生結弦のこの大人になった言葉を聞いて、私が20代の頃出会った神谷美恵子さんの本の言葉を思い出しました。
私にとって考え方を逆転させる衝撃的な言葉でした。
・・・あるとくべつな心の境地になるということそれ自体を目標として生きることは、うっかりすると目的と手段とを
すりかえることになりかねない。人間の根本的な、じみちな生存目標は、あくまでも自己の生命を誠実に、いきいきと
生きぬくことであろうから。
あるひとの生涯において一回または数回変革体験がおこったとしても、それはこの生存目標にむかっての歩みを方向づけ
力づけるという役割をになっているに過ぎない。歓喜と高揚の瞬間がすぎたあとにはまた忍耐と根気を要する時間がつづく
のである。ブーバーのいう通り、この「瞬間」は「人生の長い道の休憩所にすぎない」のであり、人間は矛盾と葛藤の中に
身をおき、苦しみながら光を求めて生きて行くべき存在なのであろう。その時、かの「瞬間」に垣間見ることをゆるされた
超越と永遠の世界は、うたがえない如実の体験としてつねにいきいきと意識の周辺にあり、生きなやみがちな現世の歩みを
支えてくれるのである。 神谷美恵子 生きがいについて より
私はそれまでこのすばらしい「瞬間」のために生きているのかと思っていましたが、その「瞬間」は人生の長い部分を占める
じみちな忍耐力のいる日々のためにあることを知りました。
学生時代から社会人になるころ、神谷美恵子やマルティン・ブーバーをよく読みました。この文章は目から鱗でした。
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