11月29日に50周年記念パーティが行われた大阪山友クラブに、変愚院が入会
したのは山を初めて2年目の1959年、♀ペンは61年に「山と渓谷」の会員募集
を見て入会しました。
1959年は4月10日に天皇が美智子皇后とご成婚、臨時の休日になりました。
もちろん喜んで山に行き、泉南の側川谷を遡行して槇尾山に登りました。
帰りにアベノの居酒屋で、ご成婚パレードをTVで見ました。
この頃は会の山行に飽きたらず、個人山行が多い生意気盛り…。

この年の春に唐松岳の帰りに八方尾根でビバーグする羽目になった時も、
5人パーティのうちリーダーとサブリーダーを除く3人が山友会員でした。

(1961年 仁川の岩場で)
1963年、チーフリーダーになりました。
1月に愛知工大生が薬師岳で遭難、13人という大量の犠牲者を出しました。
同じ日、弟の所属していた大阪岩嶺会も大喰岳(槍ヶ岳)で遭難と伝えられ
ました。岩嶺会で救援を相談しているときに、弟ともう一人が新穂高温泉に
下山して全員無事を伝え、負傷者は救援のヘリで救出されました。

山友クラブでは夏山合宿に参加するには、3回に分けて行うボッカによる
六甲全縦走のうち少なくとも2回参加することを条件にしました。
男子は30~40㎏、女子でも20㎏以上のボッカで、「あれは辛かった」という
想い出話が50周年パーティでもでていました。
ついでながら変愚院の誕生日の11月22日、アメリカ大統領・ケネディが暗殺
された年です。
翌64年、会長に祭り上げられました。トタンに120名いた会員は80人に激減
しました。辞めた人は殆どが女性で、いかに変愚院に人気がなかったかが
分かります。実は3月のリーダー会で山行以外の行事縮小、例会への参加義務
などが決議されて、幽霊会員をリストラすることになったことが大きいと思い
ます。これで当時でいえば日高パーティ、現在の言葉では合コンでの婚活目当
ての人はなくなり、本当に山が好きな人だけが残りました。

(1964年7月、白根三山縦走合宿で北岳を背に・前列左変愚院その横♀ペン)
10月東京オリンピック、そして12月、変愚院夫婦が誕生しました。

(1969年7月、三俣蓮華付近、このときの合宿は17名が参加しています)
この頃は春、夏、秋、冬と四季にわたって合宿が行われて、非常に活動が活発な
時期でした。
1970年、大阪万博、三島由紀夫割腹、よど号事件と色んなことのあった年です。
5月には日本山岳会隊がエベレストに登頂。
クラブでは創立15周年記念で槍集中登山を企画。西鎌尾根~、北鎌尾根~、
槍沢~、北尾根~奥穂~、など6つのコースで槍ヶ岳の肩へ集合。
全員で槍へ登って槍沢を降りようという計画でした。ところが集中日の前日、
台風が北アルプスを直撃。連絡もままならぬ中を各コースのリーダーの的確な
判断で全員無事下山しました。変愚院は蝶~常念~コースでしたが、横尾で
降りてきた北尾根隊と合流、上高地に下りました。ところが土砂崩れでバスは
不通。タクシーで平湯峠を越えて高山へ出ましたが、旅館はどこも満員。
駅のベンチで夜を明かしました。
結局この時、槍の肩まで行ったのは、屏風岩登攀を終えて涸沢から北穂へ登り、
大キレットを越えて風雨をついて縦走した、Tと変愚院弟の二人パーティだけ。
後でさんざんボヤカレました。
1971年、5月の春合宿の槍沢です。

このあと槍は肩までしか登れませんでしたが、天候回復後、蝶ヶ岳に登りました。
1972年、浅間山荘事件、札幌五輪、沖縄復帰の年。

(剣岳頂上にて)
この年の夏の大日~剣岳縦走が最後の合宿になりました。以後は仕事が忙しく、
しばらく山歩きから遠ざかって年報の編集などしていました。
15年足らずの在籍でしたが、この時代が私たちにとっては全てを山にかけた、
楽しい青春でした。
したのは山を初めて2年目の1959年、♀ペンは61年に「山と渓谷」の会員募集
を見て入会しました。
1959年は4月10日に天皇が美智子皇后とご成婚、臨時の休日になりました。
もちろん喜んで山に行き、泉南の側川谷を遡行して槇尾山に登りました。
帰りにアベノの居酒屋で、ご成婚パレードをTVで見ました。
この頃は会の山行に飽きたらず、個人山行が多い生意気盛り…。

この年の春に唐松岳の帰りに八方尾根でビバーグする羽目になった時も、
5人パーティのうちリーダーとサブリーダーを除く3人が山友会員でした。

(1961年 仁川の岩場で)
1963年、チーフリーダーになりました。
1月に愛知工大生が薬師岳で遭難、13人という大量の犠牲者を出しました。
同じ日、弟の所属していた大阪岩嶺会も大喰岳(槍ヶ岳)で遭難と伝えられ
ました。岩嶺会で救援を相談しているときに、弟ともう一人が新穂高温泉に
下山して全員無事を伝え、負傷者は救援のヘリで救出されました。

山友クラブでは夏山合宿に参加するには、3回に分けて行うボッカによる
六甲全縦走のうち少なくとも2回参加することを条件にしました。
男子は30~40㎏、女子でも20㎏以上のボッカで、「あれは辛かった」という
想い出話が50周年パーティでもでていました。
ついでながら変愚院の誕生日の11月22日、アメリカ大統領・ケネディが暗殺
された年です。
翌64年、会長に祭り上げられました。トタンに120名いた会員は80人に激減
しました。辞めた人は殆どが女性で、いかに変愚院に人気がなかったかが
分かります。実は3月のリーダー会で山行以外の行事縮小、例会への参加義務
などが決議されて、幽霊会員をリストラすることになったことが大きいと思い
ます。これで当時でいえば日高パーティ、現在の言葉では合コンでの婚活目当
ての人はなくなり、本当に山が好きな人だけが残りました。

(1964年7月、白根三山縦走合宿で北岳を背に・前列左変愚院その横♀ペン)
10月東京オリンピック、そして12月、変愚院夫婦が誕生しました。

(1969年7月、三俣蓮華付近、このときの合宿は17名が参加しています)
この頃は春、夏、秋、冬と四季にわたって合宿が行われて、非常に活動が活発な
時期でした。
1970年、大阪万博、三島由紀夫割腹、よど号事件と色んなことのあった年です。
5月には日本山岳会隊がエベレストに登頂。
クラブでは創立15周年記念で槍集中登山を企画。西鎌尾根~、北鎌尾根~、
槍沢~、北尾根~奥穂~、など6つのコースで槍ヶ岳の肩へ集合。
全員で槍へ登って槍沢を降りようという計画でした。ところが集中日の前日、
台風が北アルプスを直撃。連絡もままならぬ中を各コースのリーダーの的確な
判断で全員無事下山しました。変愚院は蝶~常念~コースでしたが、横尾で
降りてきた北尾根隊と合流、上高地に下りました。ところが土砂崩れでバスは
不通。タクシーで平湯峠を越えて高山へ出ましたが、旅館はどこも満員。
駅のベンチで夜を明かしました。
結局この時、槍の肩まで行ったのは、屏風岩登攀を終えて涸沢から北穂へ登り、
大キレットを越えて風雨をついて縦走した、Tと変愚院弟の二人パーティだけ。
後でさんざんボヤカレました。

1971年、5月の春合宿の槍沢です。

このあと槍は肩までしか登れませんでしたが、天候回復後、蝶ヶ岳に登りました。
1972年、浅間山荘事件、札幌五輪、沖縄復帰の年。

(剣岳頂上にて)
この年の夏の大日~剣岳縦走が最後の合宿になりました。以後は仕事が忙しく、
しばらく山歩きから遠ざかって年報の編集などしていました。
15年足らずの在籍でしたが、この時代が私たちにとっては全てを山にかけた、
楽しい青春でした。
誕生したのですね。時代背景と共に記された
山日記を愉しませて貰ってます。ペンギンさんも颯爽とした岳人ぶりですね。
50年間で7組のカップルがこの山岳会から誕生したそうです。
私の在籍中にすでに4組ありましたから、その頃は本当に
世間が狭かったのですね。♀ペンは「この人と一緒になったら、
山へ行けるから」と思って結婚したそうです。
よき時代のSTORYなり、微笑ましいです。