山浦清美のお気楽トーク

省エネ、農業、飛行機、ボウリングのことなどテーマ限定なしのお気楽トークができればと思っております。

ニンニクの醤油漬

2013-05-31 | ブログ

 今年はニンニクが思ったより多く収穫できましたので、ニンニクの醤油漬を作ってみました。3年ほど前に作った時には、単にニンニクを醤油で漬しただけのものでした。ただ、醤油そのものを料理に使う分には問題ないのですが、漬けたニンニクを料理の具材として使う分には、ニンニクの塩分が少々自己主張をしすぎるように思いました。(私が高血圧なため減塩しているためなのかも知れませんが・・・。)

 そこで今回は、酒と酢を加えてみることにしました。私が料理を作るときには何時もそうですが、分量はそれこそ目分量の適当です。元桶(一升瓶)からどぼどぼと適当に流し込んだだけです。それに一味も適量投入してみました。一ヶ月ほど漬け込めばOKかと思います。

 ニンニクの醤油漬は大変に重宝します。色々な料理に風味付けとして使えますし、ニンニクもパスタや炒飯などに使えます。変った利用法としては、夏場の食欲の無い時に、冷えた玄米に、これもぎんぎんに冷やしたお茶をぶっ掛け、薄切りしたニンニクを添えたお茶漬けなどは如何でしょうか。結構いけますよ。但し、人に会う予定がないときに限りますが・・・。


株価暴落??

2013-05-28 | 政治・経済・社会

 先日の株価急落を受けて報道は一斉に株価暴落と伝えております。ここ数日の動きが果たして、暴落と言えるようなものでしょうか?

 何となく煽っているようにも思えてしまいます。報道は事実を伝えることが大切なことであって、一々発生していることの解釈が求められているものではないと思います。報道が今後の株価の動きに影響を与える可能性があることを如何お考えでしょうか?

 報道機関が世論を誘導する意図があるとすれば、これはマスコミの中立性に違背するものとといわざるを得ません。

 株価の行方は誰にも分かりません。今後、暴騰しようが暴落しようが私の知ったことではありませんが、マスコミが囃し立てたり、恐怖心を煽ったりすることは如何なものかと思う次第です。そして、その意図通りになった場合には、その責任をとることが出来るのでしょうか。報道とその結果には因果関係がないと言われればそれまでですが、果たしてそれで済まされることなのでしょうか?

<参考> 「株価予測システム」「株価予測システム-その2」「金融工学って何?「相場とは期待と逆に動くもの」「相場師は本書き損を取り戻す」


日本の標準時を2時間も前倒し???

2013-05-23 | 政治・経済・社会

 猪瀬都知事が、日本の「標準時」を2時間も早めることを22日の政府の産業競争力会議で提案したと報道されておりました。その狙いは、東京市場を2時間前倒しすることによって、東京、ロンドン、ニューヨークの各市場が切れ間無く取引されることになり、東京の金融市場が始まる時間を世界で最も早くすることで、金融機関の拠点を日本に置く動きを促すことに繋がることにあるそうです。

 だったら、金融関係だけ早めにやれば済む話でしょう。日本全体を巻き込む必要なんてどこにもありはしませんよ!!

 省エネに効果があるとの指摘もありますが、サマータイムならば議論の余地はあるでしょうが、単なる前倒しだけでは殆ど効果は無いか、逆に増エネになる可能性だってあるでしょう。「サマータイムについて」で指摘しておりますように、夏場の1時間でも社会生活に大きな影響を及ぼすのに、今回の提案は2時間です。それも1年中の話な訳ですから、その影響は甚大です。

 そもそも生物は、太古の昔から日の出・日の入りを基準として生活してきたのです。夜行性の生物もいますが、それはそれなりの理由がある訳です。人間もその例に漏れないのです。現代のライフスタイルは、これと大きく異なったものとなっております。これは科学・技術の発達でこれを可能ならしめているのですが、それに伴って多くのエネルギーを消費することとなります。即ち、不自然な生き方がエネルギー消費の増大を招いているともいえます。

 今回の提案は、金儲けのためなら何をやっても良いといった考えが根底にあるのではないでしょうか。繰り返しますが、自分達が儲けたいのであれば、それは自分達だけが時差勤務でも何でもやれば良いではありませんか。何も標準時までをも変更する必要がどこにあるのか全く理解に苦しみます。

<2013/05/24 追記> 確かニューヨークってサマータイムがありましたよね。都合3時間の前倒しっていうこと?


スマートアグリについて

2013-05-22 | 農業

 NHK「クローズアップ現代(5月20日放送)」の「農業革命“スマートアグリ”」を興味深く視聴させていただきました。以前当ブログでも「植物工場(野菜工場)」で取り上げております。この時には、省エネの観点から私の考えを述べさせていただいております。

 スマートアグリにおいては、作物の理想的な生育環境を人為的に作り出すことによって収穫を極大化することができるとのことです。植物の生育には、光、水、二酸化炭素、栄養分、温湿度などの多くの要素が複雑に絡み合っているものと思われます。これらの要素を幾多の実験を通してデータを収集・分析し、その最適な組合せを見出し、これを実際の栽培に適用しているのでしょう。そして、そこでは土壌といった概念は無く人工繊維やマルチフィルムなどの人工土壌というものに置き換えられています。

 土壌を用いないということは、微生物も利用しないということを意味します。植物の生育にとって微生物が果たす役割は大変に重要なことは広く知られているところです。(参考:「生きている土壌」) 今までの農業は、微生物や小動物を含めた土壌という概念の上に成り立っていたとも言えるでしょう。これをスマートアグリは、根底から覆すものと言えるのではないかと思われます。

 人の成長にも風雪に耐えてとの例えがあるように、植物も過酷な自然環境に耐えて力強く成長してきたもののみが生き残ります。スマートアグリによる作物は、まさに温室育ちに例えられるでしょう。平飼で自然の餌を啄み、のびのびと育ったニワトリの卵とケージで飼いで高栄養の餌で運動不足に陥ったニワトリの卵のどちらを望みますか?

 また、植物は微量元素を要求します。土壌はこれらの供給源としての役割もあります。スマートアグリにおいて、これらの微量元素を完璧に再現できるか否かは不明です。

 とにもかくにも、従来農法で栽培されたものであれ、スマートアグリで栽培されたものであれ、選択するのは消費者である皆様方だということは言うを待たないことです。

 ただ、やっかみ半分で言わせていただければ「スマートアグリ」とはいかにも驕ったネーミングではないかと思います。従来農法はいかにも時代遅れのばか者がやっているような方法だと言わんばかりです。以前誰かが言っていた「賢い節電」と「馬鹿な節電」に通ずるところがあるようにも思えます。(参考:「時間帯別料金(ピークシフトプラン)と太陽光発電」)

 私としては馬鹿と言われようが、アホと言われようが、自分のスタイル(「自然農法」)を追求して行きたいと思っております。

<参考> 「スマートアグリについて(2)」「スマートアグリについて(3)


放射能除去装置について

2013-05-18 | 政治・経済・社会

 放射能除去装置という名称は色々と誤解を招きかねないように思います。ネット検索をしてみても、放射性物質を分離するものだったり、放射性物質を別の核種に変換して無毒化(?)するものだったりします。以前書いた「放射能除去装置の可能性」という記事は、後者の意味の装置を指しております。

 前者の意味での放射能除去装置は、広く拡散した放射性物質を分離収集し、非放射物質を取り出すようなものです。例えば、福島第1原発で稼動している汚染水処理装置が該当します。高濃度汚染水を当該装置で処理することにより、汚染水の放射能レベルを低下させます。しかし、処理装置には高レベルの放射性物質が残されることになります。

 後者の意味での放射能除去装置は、放射性物質を非放射性物質化する装置を指します。先に紹介した東海村のジェイ・パーク(J-PARC)で行われている研究は、核廃棄物に中性子線を当て、低レベルの放射性物質に核種を転換するものです。この研究が実用化されれば、前者の意味での放射能除去装置で取り除いた高レベルの放射性物質を低レベル化したり、半減期の短い放射性物質に転換できるようになります。

 現在、汚染水処理、除染で発生する廃棄物の処理、核廃棄物最終処分場など未解決の問題が山積しております。これらの問題を解決するには、前後の意味での放射能除去装置の高性能化と後者の意味での放射能除去装置の開発が待たれるところです。


自民党の日本国憲法改正草案について(2)-公益及び公の秩序

2013-05-16 | 政治・経済・社会

 自民党の「日本国憲法改正草案」の条文中、第12条、第13条、第21条、第29条に「公益及び公の秩序」という文言があります。

 少々長いのですが「日本国憲法改正草案 Q&A」から引用しますと「従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。」となっております。

 「公共の福祉」を巡っては、諸学説あることは指摘の通りですが、だからといって「公益及び公の秩序」とすることで分かり易くなったと言うことができるでしょうか。およそ「公益」だとか「公の秩序」といったことが曖昧模糊とした概念です。似たような言葉に「国益」といったものがあります。国会でも「国益」という言葉が頻繁に飛び交いますが、一体何を指しているのかサッパリ分かりません。用いている人や立場によって大いに異なるように思います。結局は「公共の福祉」と同様に「公益及び公の秩序」も大いなる議論の紛糾を招くことにならざるを得ないと思われます。

 引用文中に「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。」とされているように、基本的人権をより強く制約する方向に持って行きたいものと思われます。特に、第21条に関して言えば、現行憲法には無かった第2項を新設して制限できることとしております。これらのことより、基本的人権をより制限することが狙いであることは明らかなことであろうと思われます。このことに関してQ&Aでは、オウム真理教のことを持ち出しておりますが、先日の国会答弁で現行憲法下でも破防法の適用は可能であったと答弁されておりました。

 更には第102条で、国民に対して憲法尊重義務を課しております。これは本末転倒であるといえるでしょう。そもそも憲法制定や改正の原泉は国民にあります。国民の圧倒的多数に支持されてこその憲法である訳ですから、自ら支持した憲法を遵守せよとは何事かと思います。むしろ憲法を守るのは権力側に求められることです。これが現行憲法第99条の趣旨です。ここにも基本的人権の制約を狙っていることが見えてきます。


TPPについて(17)-農業の経営規模拡大の行き着く果ては?

2013-05-13 | 農業

 農業の生産規模拡大を図り、経営基盤を強固にするといった方針が議論されております。そのためには、農地の集積化や株式会社の参入などの規制緩和が不可欠であるといった論理になります。これらの議論に対する私の考えは、。「TPPについて(3)-経営規模拡大で対抗できるか?」などで述べてきておりますが、今回は視点を少し変えて、実際にこのような農業が実現した場合を想像してみましょう。

 実現の手段として、先ずは個別農家、あるいは株式会社が多くの農地を購入乃至は借り入れるなどして耕作面積を拡大していくといったことが考えられます。設備投資など多くの資金が投入されますので、これを回収するためには売上高の増大とコストダウンを目指します。売上高の増大には、収穫量を増やすことと付加価値を高くすることといったことが対応するでしょう。収穫量の増大には、自ずと限界があります。付加価値を高くするためには、加工販売や流通まで乗り出すこととなります。しかし、これは従来の産業を他者から取り込んだだけですから、全体的に見ればプラマイゼロですし、ここまでくると農業による利益よりも加工販売の利益の方が大きくなるでしょう。そうすると、もはや農業とは言えないのではないでしょうか。また、コストダウンに関しては機械化、省力化の徹底が図られるでしょう。このことは農作物管理の希薄化となって現れます。収穫量と肥料投入量、農薬使用量、農作業などが金銭評価され、利益の極大化が図られることとなります。利益が極大化されるならば、多量の農薬が用いられるかもしれませんし、除草剤がコストアップの要素となれば雑草だらけになってしまうかも知れません。人手で除草などはもってのほかといったこととなります。例えば、稲作ではヒエが多く発生します。基本的には除草剤で対応するでしょうが、最終的には人手で取らなければなりません。大規模経営の場合には、人手でヒエ取りすることは不可能ですから、除草剤に頼るか、放置するしかありません。放置すれば、流れヒエの原因となり他の農地に迷惑をかけます。何れにしても大規模経営からは環境保護といった考えは出てきそうにありません。

 他の手段としては、個々の農家が共同して集団営農を行うといったことがあろうかと思います。しかしながら、社会主義国での失敗例を引き合いに出すまでもなく、賢い方法とは言い難いように思います。既に営農集団は全国に多数存在しております。このような緩やかな結合ならば機能していく可能性はありますが、集団営農による大規模化は、自由主義国においては不可能でしょう。

 更には、大規模経営によって利益が上がれば良いのですが、上手く行かない事だってあるでしょう。始めたは良いのですが、引き際がまた大変なことになってしまいそうです。集積化された農地をそのままで引取る新たな経営母体があれば未だしも、多くは切り売りされるのでしょう。一旦離農した方々が元に戻るようなことは考え難いものがあります。結局は耕作放棄地になりはしないか、最悪は農地が転用されて商業地として高値で売買されることになりはしないかといったことも懸念されます。

 このように大規模化すれば農業問題は解決できるといった考え方には疑問を呈さざるを得ません。さはさりながら、規模拡大化は一つの大きな流れとなることは必然でしょう。問題は規模拡大化のためには、他は犠牲にしても良いといった考え方が出てくるのが困ります。「農地の集積化を邪魔をしているのが兼業農家だ!」だから強制的に農地を取り上げてしまえみたいな議論にならないように願いたいものです。

 「兼業農家は是か非か?」でも述べておりますように、私は兼業農家にも一定の役割があると考えております。「経営規模拡大」、「攻めの農業」、「集約化農業」、「趣味の農業」などなど多様性の高い農業のあり方を認め、互いの特色で相互補完することができてこそ足腰の強い農業となるのではないかと考えます。

<参考> 「農地の集約化と生産性向上の限界


自民党の日本国憲法改正草案について

2013-05-10 | 政治・経済・社会

 憲法改正は、自民党結党以来の悲願であるといわれております。どのようなものか「日本国憲法改正草案」なるものをざっと眺めてみました。GHQに押し付けられた現行憲法を改正するとの意気込みで作られた草案ですから、全文書き換えに近いものと想像しておりましたが、案に相違して何となく肩透かしを喰らったような気がしました。

 改正論者が最も忌み嫌っていた前文こそ全面的に書き改められてはいるものの、条文の骨格は現行憲法を踏襲しております。確かに、自民党の従来からの主張は盛込まれてはいるようですが、先の意気込みはどこに行ってしまったのでしょうか?

 既に第9条に関しては「憲法第9条について」で書いておりますが、個別の論点については、今後改めて書いていきたいと思っております。

<参考> 「日本国憲法改正草案 Q&A

 


憲法第9条について

2013-05-08 | 政治・経済・社会

 憲法改正議論の最大の争点はやはり、憲法第9条であろうと思います。憲法擁護/改正の両陣営の主張が最も先鋭的にぶつかるところです。

 先の大戦後に第9条が果たしてきた一定の役割は評価すべきことであろうと思います。しかし、第9条擁護の立場からの主張は、私が見聞きする範囲では余りにも理想主義的であろうと思われるところがあります。例えば討論番組などで、外国からの脅威に対してどのように対応をするのかといった問いに対して「先ずは外交交渉で・・・」とか「そのようなことが起こらないように・・・」とか「国連で・・・」とかいった決まり文句しか聞こえてきません。質問者は、そのようなことが行われることは前提の上で、それでも脅威となるようなことが発生した場合にどうするのだといった現実的問題について質しているのに対して、観念的な答えしか返さない擁護派の議論にその限界を見てしまいます。せめて「万が一そのようなことが発生したら自分自身が銃を持ち民兵として闘う。」とか「理不尽な侵略に対してはレジスタンスとして徹底的に戦う。」とかいった気概でも見せてくれればと思うのですが・・・。

 第9条擁護の立場では、軍隊の存在を否定します。主張の中には、全世界から軍隊がなくなれば平和な世界が訪れるといったものがあります。しかし、警察の存在までも否定されることはありません。警察がなければ犯罪の無い社会が訪れると言っていることと同義であろうといった指摘に対して、明確な反論は期待できないでしょう。ましてや軍隊は世界中に存在しているのは厳然たる事実です。このような国際環境の中で、どのように対処できるかといった議論に最適解を提示できないでしょう。このように第9条擁護派の議論が観念的にならざるを得ないのは、その中に軍事の専門家がいないことに起因しているものと思います。平和憲法で軍隊を否定しているのだから、軍事を研究することは不必要なことであるとお考えのようです。ですから現実的な問題に対して、的確な反論が出来ないのも当たり前です。

 また、現に自衛隊という組織が存在しております。これは解釈改憲の範疇を超えているものと考えられますが、その矛盾を解決するために違憲合法論なる考え方が生まれました。しかし、このことを突き詰めると違憲であるけれども一般法で立法し現実的な解決が図れるならば合法的な存在として認めようといったこととなり、結果的に憲法の規定を否定してしまえるこになってしまいます。憲法を守りたいが為に、かえって憲法を軽視することとなってしまいます。

 これらのことは原発事故にも似ていると思います。安全神話を拠り所に、原発事故は発生しないと思い込んでいたところに最大の問題があったのです。地震や津波への備えを指摘されても、それでも原発は安全だと耳を貸そうとしない。指摘を受けても安全基準が見直されることはなく、挙句の果ては想定外の事象が発生したといったことで正当化を図ろうとする。そして地元住民は辛酸をなめさせられ、現場の作業員は命がけの作業に従事させられる。

 外国からの脅威を同列に扱うことは出来ないとは思いますが、一方では現実的脅威に対してどうするかといった切実な問題提起をしているのに、方やそのようなことは起こりえないことだと思い込んでいる両者の間では、議論が噛み合わないのも当然だと思われます。

 自民党草案では、第9条を改正して、「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」ということになっております。また、第98条、99条で緊急事態に関して規定されております。これらの規定により、戦争状態その他の緊急事態が発生した場合には、憲法が保障している国民の権利が制限されることになりますが、これらについては別途法律によって定められることとなっております。これらの権利の制限を全て法律に白紙委任してしまってよいものか、それともこれらの法律によっても制限できない国民の権利を憲法上で規定しておく必要があるのでないかといった議論もあろうかと思います。

 憲法擁護派も憲法改正規定が厳しいことに胡坐をかいて理想主義的な主張を繰り返すばかりではなく、現実的な問題提起に対して現実的な主張で対抗できるようにしていただきたいものです。憲法改正の議論すらも罷りならぬといった姿勢では建設的な議論はできません。頑なに拒むことが結果的に将来の国民を苦しめることにならないように願いたいものです。


憲法第96条の先行改正について

2013-05-07 | 政治・経済・社会

 自民党の「日本国憲法改正草案」第100条によれば、発議要件を各議員の総議員の2/3以上から過半数へと緩和することとなっております。これでは、あまりにもハードルの下げすぎになるのではないかといった主張があります。この点は、大いに議論の分かれるところだと思いますので、諸外国の憲法改正に関する資料を探しておりましたら「諸外国における戦後の憲法改正【第3 版】」というのがありました。

 各国それぞれ特色があって、面白く読ませていただきました。先ずは、現行憲法の草案に深く関与している米国をみてみますと、これはかなり改正要件が厳しいと言えますが、2010年7月までに6回の改正(米国では修正)が行われております。ドイツの改正要件はかなり厳しいにも拘らず57回もの改正が加えられております。これは憲法(ドイツでは基本法)に一般法で規定するような事項も規定されているといった特殊事情があるようです。

 改正要件が一番緩やかなのはイタリアでしょうか。イタリアでは15回の改正が行われております。このイタリアの改正要件より、自民党草案の改正要件は緩いように思われます。

 確かに、改正要件が緩ければ改正の回数も多いようにも思います。ただ、ドイツの場合のように憲法に何が規定されているかといった事情によっても大いに異なるものとなるでしょう。これは、例え改正要件が厳しくとも、必要性が高ければ憲法は改正されることを意味しています。ですから、改正要件を緩和するためだけの憲法改正については違和感を感じざるを得ません。

 また、国民の意思が適切に反映されていることが担保できているかといった議論も必要かと思います。例えば、一票の格差の問題を含む選挙制度も当然議論の対象としなければならないと思います。憲法の制定・改正の原泉は、究極的には一人一人の国民に求められるものであろうと考えます。ですから、この平等性が最も大切なことともいえるのではないでしょうか。

  「憲法改正について思うこと」でも書いておりますが、憲法第96条の改正を先行して議論するより、せっかく自民党の憲法改正草案が出来上がっているのですから、これを一体的に議論することの方が望ましいと考えます。仮に憲法第96条の改正を先行させるとしても、自民党草案のような緩やか過ぎる改正要件は、憲法の安定性を害することにもなりかねません。もう少し工夫があっても良いのではないかと思います。 


日本国憲法を読んでみよう!

2013-05-06 | 政治・経済・社会

 憲法改正議論に参加するためには、日本国憲法を知る必要があります。そのためには、虚心坦懐に憲法を読んでみるのが一番だと思います。法律の知識が無くても読めるかといった心配もあろうかとは思いますが、先ずは読んでみることです。分からないところがあれば、調べれば良いではないですか。そのプロセスを通じて理解が深まろうと言うものです。

 素人向けの解説本も多く出版されているとは思いますが、それは何らかの意図を持って書かれていることが多いと思います。先ずは、条文を素直に読んでみることが大切ではなかろうかと思います。

 参考までに、日本国憲法の全文は「日本国憲法」が、横書きなので読み易いと思います。また、自民党の「日本国憲法改正草案」には、現行憲法と改正案が対照して書いてありますので、どこをどのように変えたいのかが明瞭に分かります。

 「憲法改正について思うこと」で書いておりますように、先ずは関心を持ち、理解を深め、そして議論に参加していくことが大切なのではないでしょうか。


TPPについて(16)-高付加価値農産物について

2013-05-03 | 農業

 TPPに関連して、高付加価値農産物が語られます。何を意味しているのか良く分かりませんが、少々高くても買ってもらえる農産物のことのようです。例えば、マンゴーだとかイチゴだとか、値が張っても「美味しくて・・・」などといった理由で欲しくなるようなものなのでしょう。

 他の農産物のことは知りませんが、イチゴのことなら少々語らせていただくことができるかと思います。と言いますのも、1960年代の後半から、福岡県大木町で私の父がイチゴの栽培をしていたからです。確か最初に栽培したのは、ダナーといった品種だったと思います。現在のような立派なビニールハウスではなく、竹を割って作ったトンネルにビニール掛けしたものですから、温度管理の作業も大変でした。ダニやうどん粉、灰色カビ病などの病害虫も多く、栽培には相当の困難が伴うものでした。その後、宝交や促成4号(はるのか)などの品種を手がけ、文献を調べたり、園芸試験場などと協力し試行錯誤しながらの手探りで栽培技術を確立させていました。今では夏場に冷蔵庫に入れて、花芽分化を促進させ、クリスマス前に収穫するといったことは、当たり前みたいに行われております。当時は苗をポット上げして高冷地(城島高原など)へ運び、依託管理してもらったりするなどの取り組みをしたこともあります。

 また、現在のような確立した販路もなく、地場の市場開拓の他に東京市場の開拓などにも力を尽くしておりました。そのお陰で父は不在のことが多く、農作業のほとんどが母にのしかかっているような状況でした。ですから、私も一定の役割を担わされることになるのは必然なことでありました。

 その後、栽培方法は確立し、現在のような大きなビニールハウスで栽培されることとなっていきました。その間、約10年くらい私もイチゴ栽培に間接的に携わっていたことになります。

 イチゴ栽培というと傍目には楽そうに見えますが、物凄い労働集約型の産業です。年間を通して、暇な時期はほとんどありません。極めつけは出荷の時期です。摘み取り、パック詰、出荷を短時間で行わなければなりません。最盛期は寝る時間が無いくらいになってしまいます。私もパック詰め作業を相当手伝ってきました。受験間際でも父が不在の時には無言の圧力がかかってきます。母一人では徹夜しても終わらないことは一目瞭然です。孝行息子(?)としては見るに忍びず、泣く泣くというか、勉強したくない言い訳として深夜までパック詰めに勤しむのでありました。

 こんなに苦労したイチゴですから、さぞかし儲かるのではないかと思われるでしょう。確かに、米麦などに比べれば売上は上がります。しかし、その分の経費が掛ります。ビニールハウスなどの資材、農薬・肥料、冬期の暖房設備や燃料費、そして一番高いのが人件費です。最盛期には、摘み取りやパック詰めには、近所の方々に手伝ってもらいます。結局何やかんやで、所得を計算すると公務員の平均給与(当時の公務員の給与水準は低かった)に遥かに及ばないものでした。はっきり言って、馬鹿馬鹿しくてやってられないと子供心に思ったものでした。

 父曰く、「結局は農協や農薬・肥料会社、農機具・農業資材会社などを儲けさせてやっているようなものだ。」と。しかし、他の作物を作るより収益が挙がりますので、止めてしまうわけにはいきません。結局は、齢だけを重ねるといったことになります。

 時は流れ、私も無事大学に進学し、憧れの会社員となることになり、花の東京でソフト開発の仕事をすることになりました。やっとのことで、百姓から逃れた訳です。その後、家庭の事情で連れ合いの実家に住まうこと(いわゆるマスオさん)になりました。何の因果か、そこでもイチゴに関わることとなってしまいました。一緒に住む条件として、イチゴは一切手伝わないということにしておりました。しかしながら、この約束は、ビニール掛けやなんやかやと人手が必要なときには反故にされてしまいました。

 一旦、イチゴとの係わりを絶ってから10年の年月を経ても、イチゴ栽培の実態は大して変っておりませんでした。品種改良されたブランド品種、栽培技術の確立とともに作業標準化したせいもあるのでしょうが、やたらと肥料や農薬に頼っているように見受けられました。一旦、ビニルハウスを立てると毎年同じ農地での連作栽培となります。つまり連作障害が発生するようになります。これを予防するために、土中微生物を殺菌してしまいます。機械で土中に穴を穿ち、高圧で殺菌剤を注入します。その後、有機資材を投入して、土壌改良を行います。農家によっては、無機肥料だけに頼っているケースもあります。また、相変わらず病害虫は多発します。また、液肥などを多用します。

 このようにして栽培される高付加価値農産物は、私の目指す「自然農法」と対極にあるものといえるでしょう。ここで高付加価値農産物の是非を議論するつもりはありませんし、議論しても無意味でしょう。農業を産業として捉える限り、利益追求は致し方ないことですから。ただ、本来の農業は、安くて安全な食料を供給することが重要な役割であろうと思います。そこに産業といった役割は、そぐわないのではないかとも思ったりします。

 余談ですが、私は高校卒業以来、イチゴを食べたいと思ったり、自ら購入したことは一度もありません。何かにくっついてくるから仕方なしに口にするだけです。人が一生かかって食べる分以上のものを食してしまったからでしょう。あの芳しい香りも、私にとっては単なる悪臭にしか過ぎません。パック詰めされる前の大量のイチゴが置かれた部屋に入った時の匂いを嗅ぎ過ぎたからでしょう。


憲法改正について思うこと

2013-05-02 | 政治・経済・社会

 憲法改正の議論が世上を賑わせている昨今ですが、日本国民が日本国憲法に関する知識を如何ほど持ち合わせているのでしょうか?

 学校教育の中で若干取扱われているでしょうが、その知識すら殆どの方々は忘却の彼方にといった状況ではなかろうかと思われます。憲法改正を主導する安倍総理が、憲法の知識や有名な憲法学者の名前を問われて答えに窮するといったことは誠に残念なことであったとは思いますが、これが日本国民の現実であるということを雄弁に物語っているのではないでしょうか。

 憲法改正の議論の活発化は、広く国民が憲法について考える好機と捉えるべきことであろうと歓迎いたします。世の中には色々な考え方があるもので、現行憲法の一字一句でも変えることは罷りならぬ。憲法改正の議論をすることすら絶対反対であるといった主張もあるようです。議論自体を否定することは如何なものかと思います。正々堂々と現行憲法維持の論陣を張ればよいことです。そのことによって現行憲法の理解が広まろうというものです。大いに議論を深め、より良き未来のため憲法は如何にあるべきか考えることが大切なのではなかろうかと思います。

 さて、安倍総理は憲法第96条を先行させようとのお考えのようです。確かに、96条の改憲規定は厳しすぎ、制定されてこの方一度の改正も行われておりません。大日本帝国憲法(旧憲法)の改憲規定は、

「第73条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ

 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員3分ノ2以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員3分ノ2以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス」

のようになっております。この規定も相俟って旧憲法は不磨の大典とも言われており、先の大戦が終結するまで一度も改正されることはありませんでした。
 現行憲法は、旧憲法第73条第2項の規定より厳しく、更には国民投票まで課しており、事実上改憲できない憲法となっております。これでは現行憲法も不磨の大典化していると言われても仕方がありません。旧憲法がGHQにより現行憲法に改正させられたように、現行憲法があまりにも現実と乖離したとなれば、何らかの強制力が働くことにもなりかねません。
 
 安倍首相は、先ずはこのハードルを下げることを試みようとのお考えなのでしょう。即ち、第一段階として憲法の本質的な議論を避け、手続き論から入っていこうという戦略です。第二段階として、いわゆる本論としての憲法改正がある訳です。憲法擁護の立場からは、第96条の改正は、その後に続く改憲への見え見えの布石にしか映りませんから、何が何でも反対といったことになります。

 憲法の制定・改正は国民の一大事業ともいえます。安倍首相が、日本国の将来にとって憲法改正が絶対に必要とお考えならば、96条の先行改正ではなく、96条との一体改正を正々堂々とご主張になるべきではないかと考えます。でなければ、せっかく改正した憲法が定着せず、政権交代の度に改正される憂き目に遭わされるかも知れません。

 あまりにも硬直化した憲法を望むものではありませんが、あまりにも軽い憲法を望むのものでもありません。本当に必要な改正であれば、多くの国民は納得すると考えます。政府はそのような国家観、憲法観をもった成熟した国民を養成する責務があると考えます。

 また、「憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」のように国民にも責務があります。 

 憲法記念日を前に、多くの国民が憲法に関心を持つことを願いたいと思います。