「しんぶん赤旗」11日~12日付「文化・学問」欄に坂本茂男氏(日本共産党青年・学生委員会事務局員)の寄稿文「資本論と公衆衛生」が掲載され、興味深く読ませていただきました。以下、11日の「マルクスとコレラ大流行」を中心に紹介させていただきます。
「歴史上、人類をたびたび襲ってきた感染症。19世紀に生きたマルクスもコレラの度重なる大流行に遭遇しました。~マルクスの体験は壮絶なものでした」
「19世紀当時、コレラの大流行がイギリスでは4回ありました。マルクスはドイツの革命が敗北し、1849年にイギリスに亡命。ロンドンに到着早々、コレラに感染したようです。『私は4、5日来コレラの一種にいかかり、ひどく疲れている』(友人への手紙、49年9月5日付)。59年にも『コレラにやられた』(エンゲルスへの手紙、59年7月4日付)とあります」
「コレラは感染するとひどい下痢とオウ吐で急速に脱水症状を起こして、単期日で亡くなることもあり、たいへん恐れられました」
「マルクス一家は50年末にロンドンのソーホー地区に住みます。生活は『家族はパンとじゃがいもで養ってきたが・・・今日は手に入れられるかどうか・・・どうすればこんな泥沼から抜け出られるだろうか?』(エンゲルスへの手紙52年9月8日付)という苦しいものでした」
「54年のロンドンのコレラの大流行の時、ソーホー地区は8月末から10日間で500人余りが亡くなる惨事になります。『ソーホーがコレラに選ばれた地区である・・・ここでは民衆はいたるところでくたばっていく』(エンゲルスへの手紙9月12日付)、われわれの地区は猖獗(しょうけつ)をきわめた』(同9月22日付)。街の悲惨な状況が伝わってきます」
「このとき、街を救ったのが、ジョン・スノウでした。当時の医学では、コレラは『悪臭』から感染するという説が主流でしたが、スノウは、飲み水を媒介とするのではないかと推測。54年8月末にソーホー地区で感染が始まると、亡くなった患者が住んでいた場所を地図に落とし、感染源とみられる井戸を特定して使用禁止にし、感染拡大を抑え込みました。マルクス宅からこの井戸までわずか200㍍でした」
「スノウの作成した地図は『コレラ・マップ』と呼ばれ、スノウは公衆衛生の発展に寄与した『疫学の父』とされていいます」
「マルクスはこの不健康な街でどん底の貧乏に苦しみ、55年4月、8歳の息子を病で亡くし打ちのめされます。さらに後には、孫2人がコレラに命を奪われています」
「こうした体験は、『資本論』にでてくる労働者家族の悲惨な実態そのものでした。コレラ禍に遭ったマルクスは自らの経験やエンゲルスの成果に学び、『資本論』での労働者の健康問題の告発に踏み込んでゆきます」