原水爆禁止2013年世界大会の国際会議が3日、広島市で始まりました。広島で母親と被爆した日本原水爆被害者団体協議会事務局次長の藤森俊希さんがあいさつの中で、被爆の体験を語りました。「私は、広島の爆心地から2.3㌔の神田川の土手の上で母親とともに被爆しました。1歳でした。母は毎年8月6日、子どもを集め、体験した地獄のような広島を涙を流しながら話し聞かせました。ことし4月、2015年NPT(核不拡散条約)再検討会議第2回準備委員会のNGOセッションで、母から受け継いだ被爆体験を話しました。アイルランド代表は、被爆体験が核兵器廃絶の原点だ、そのことを思い起こさせてもらって感謝する、と述べました。母が子に託したのは、このことだったのかもしれないと私は胸が熱くなりました」(「しんぶん赤旗」4日付)
被爆60周年の世界大会は広島で開催されました。その大会の時、久しぶりに原爆資料館を訪れました。過去からの展示品とともに最近、寄贈された遺品も展示されていました。その一つの遺品の前で、自然に足が止まってしまいました。「遺髪」でした。その説明文には、母親の言葉が書かれていました。被爆し12歳で亡くなった娘さんをようやく探し出し、その娘さんの遺品として、被爆後60年間、家で保存してきたけれど、もう何年生きられるかわからないので、資料館で保管してほしい、と書かれていました。「遺髪」は心をこめて大事にされ、手入れも行き届いていたのでしょうか、今生きていいる娘さんの髪のように黒く輝いていました。同時にどんな無残な姿で亡くなられたのか、頭の中をその時の地獄の様相が駆け巡りました。
藤森さんが参加した、4月のジュネーブの第2回準備委員会で、核兵器の非人道性を批判し、核兵器の不使用を主張した共同声明が発表され、賛同国は80カ国に広がっています。ところが、被爆国日本の政府はこの声明への賛同を拒否しました。その理由が、「いかなる状況下でも核兵器を2度と使用しない」という部分が受け入れられないということであったと報道されています。一定の状況下では、核兵器使用を正当化するものです。「核兵器のない世界」にむけて努力している国際社会への重大な背信、妨害行為ではないでしょうか。
7日~9日開催される「原水爆禁止2013年世界大会―長崎」に参加します。全国の、世界の仲間とともに、「核兵器のない平和で公正な世界を」めざし交流し、学んできます。