じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

人間力

2009-04-24 04:25:14 | Weblog
★ 柳家花緑著「落語家はなぜ噺を忘れないのか」(角川SSC新書)を読んでいる。

★ ずいぶん前に「野球を100倍楽しむ本」というのがあったが、花緑氏のこの本はその落語版と言ってもよかろう。自らの落語家としての曲折を描きながら、落語の面白さ奥深さを絶妙な語り口調で述べている。

★ ふと気づくことがあった。それは「人間力」ということだ。

★ 花緑氏は「守破離」について述べている。もともと武道の言葉だそうだが、芸能の世界でもよく使われる。

★ まずは、問答無用で型どおりを体得し、次にその型を壊し、最後に自らの型を築く。型どおり体得することだけでも大変なのに、それを壊して自らにあった型を築くと言うのは、筆舌に尽くせぬ経験、努力、苦悶を必要とする。

★ プロはこの独自性をいかに築くかに心血を注ぐのだろう。

★ そして、技術を磨きネタを練り上げ、その過程で形成されるのが「人間力」であるように思う。

★ デーモン小暮閣下が「横綱の品格」についてNHK「知楽」で語っているが、「道」と名のつくものには通じるものがあるように思う。

★ そこで、教育という営みに関しても「教師道」といったものがあるのではないかと思いついた。教師と言っても仕事は多様だが、広い意味で「教え育てる力」の形成は教職者の生涯を通した課題であり、究極の専門性に通じるものだろう。

★ 経験を積めば、教える技術を身につけ、子どもたちを一通りマネジメントできるようになるかも知れない。しかし、彼らの魂をゆさぶるような授業であったり、あるいは「授業」という舞台だけではなく、話す一言一言が、身振りや手振り、目配り更には存在そのものが「教育」であるような段階に達するのは理想であり、究極至難の業である。

★ 落語でネタが落語家を育て、落語家がネタと一体となって成長していくように、教育実践もそれによって教師の人間力が高まり、実践と教師が一体となって成長していくのであろう。

★ 私は最近になってやっと「動じない心」の一端を感じるようになった。必要な時に必要な対応をごく自然にできるようになってきたと自覚している。私塾経営を25年以上経験し、日々反省しきりで未熟さを感じながらも、やっと「教育」のなんたるかについて、時々ふと感じることができるようになってきた気がする。

★ つかんだと思えば逃げていく、まるで幽霊の着物の裾をつかむようなものだが、教育道に終わりなし、ますます精進したいものだと感じた。
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