じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

鷲田清一「<個> 自由の隘路」

2021-02-19 20:35:36 | Weblog
★ 京都府公立高校前期試験、鷲田清一さんの「<ひと>の現象学」(ちくま学芸文庫)から、「<個> 自由の隘路」の一部が国語科で採用されていたので読んだ。

★ 学術論文ではないとはいえ、哲学者の文章は難しい。しかし、私たちが日常ごく普通に使っている「自由」という言葉が実に曖昧なものであることが分かった。そしてその原因が、明治初期、freedomやlibertyという語が輸入されたとき、日本の知識人たちの悪戦苦闘にあるということが分かった。

★ 鷲田氏は「自由」という語には、外圧からの抵抗の「合い言葉」として使われる「自由」と「わがまま」「放埓」、勝手気ままという意味で使われる「自由」があるという。

★ このあたり鷲田氏は柳父章さんの「翻訳語成立事情」(岩波新書)を紹介されていたので、同書の第9章「自由」のところを読んでみた。

★ そもそも漢籍や日本語の中に「自由」という語があり、それはあまり良い意味で使われなかったという。明治期の知識人たち、西周や福沢諭吉などもあえて「自由」という語を避け、「自主」とか「自在」「寛弘」などという訳語を使っていたという。それが明治4年、中村正直が「自由之理」を著した辺りから「自由」と言う語が訳語として定着してきたという。曖昧な意味を残したままに。

★ グローバル化が進み、「証拠」と言えば良いところを「エビデンス」という時代になった。しかし、果たして原語の本来の意味や感覚(ニュアンス)を私たちは理解しているのだろうか。わかったような気になっているだけかも知れない。そんなことを考えさせられた。 
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