「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

伝・田名部献上と八戸上総 壱

2008-09-10 20:54:00 | 歴史関連コラム?
 3日連続の秋晴れ、空の青も時間が経つに従って青さが増し、湿度も低くて過ごしやすい、いわば秋晴れといった一日となりました。

我家から



大きな洗濯物には絶好な日和



〇田名部献上と後誓文呑込み事件

 あくまでも遠野側からの口伝え・・・。

 江戸時代の安永年間(1772~1781)時の遠野南部家当主は、第7代八戸弥六郎義顔公、盛岡南部藩主は、第8代藩主南部利雄公の時代とされています。
 事の発端はよくはわかりませんが、この時代、蝦夷地ではアイヌの反抗やらロシア等の外国船の出没が頻繁となり、幕府にとっては北辺の警備といった事案が急浮上してきた時代ともいえます。
 とりあえずは蝦夷地の松前藩、海峡を挟んでの本州では津軽藩に応急的な対応を指示したようでもあります。
 それとともに蝦夷地に至近の本州、其処は下北半島に他ならないことでもありますが、この地を田名部と称していて、南部藩領でありました。
 幕府は蝦夷地への前線基地的意味合いで田名部の重要性を認識したとされ、幕府の直轄地とする目論見があったとも語られております。

 話は少し逸れますが、藩主利雄公(としかつ)は、温厚な太守であったと伝えられ、何事も藩老等重臣達の進言をよく聞いた殿様だったといわれます。
 利雄公には嫡子、利謹公(としつよ)がありましたが、利謹公は剛毅大胆それに才気にあふれた若殿で、家臣達からは利謹公の世となれば南部盛岡藩の国威が大きく発展するものと期待が大きかったともいわれます。
 幕府からも期待する何かがあったものなのか、成年に達すると父利雄公と同列の官位に叙され、藩政に加わることが許されるものでした。(従五位下信濃守)
 利謹公はこうした処遇に慢じたものなのか、みちのくの片田舎の太守を越え、幕政に関与したい、老中、若年寄となって参与したいという夢が芽生えたともいわれます。
 しかし、幕府要職は譜代大名に限られ、外様の南部家は論外という仕組みでもありました。

 幕府重役と親交があった利謹公は、その実情を懇願すると幕府に対して大きな功績があれば、外様といえども譜代に取り立てられ幕政参与は夢ではない旨を聞いたと伝えられ、その見返りは何かといえば、先に記述した田名部を幕府へ献上するといった事であり、利謹公は早速このことを実行と移さんとしたと伝えられる。

 取り交わされた約束事とは・・・あくまでも言い伝え、噂の範疇か?
・田名部3千石献上の事
・老中、若年寄の御役を承り天下の政務に参与する事
・南部10万石を20万石に加増する事

 この三つの内、第一の難題は、20万石への加増の事で、傍からみれば10万石を20万石に加増して、一気に大々名の仲間入りとなって国力が上がるのではないのか?そんな事を思うことでもありますが、その内情は10万石の国力はそのままで、幕府に対する義務等ばかりが倍になるといった内容で、むしろ国力の弱体化が懸念されることでもあり、家臣達の間では大騒動となったようです。
 すなわち家臣は20万石に相応しい倍の人数にしなければならず、名目だけの加増で家臣達の俸禄はむしろ減らされる公算が強いものでもある。
 (1万石当り250名の武士、10万石では2千5百人、20万石では5千人)

 そして幕府要職となれば、国替が普通で奥州の片田舎ではなく関東甲信越の江戸に割と近い封地が与えられる可能性が大きく、国替は長年蓄積された財産の放棄を意味し、江戸時代は国替となった大名家が弱体化するといった内情があって、これも大問題だったようです。


〇 八戸上総
 田名部は本来、八戸時代の八戸家領でありましたが、清心尼公時代に太守南部利直公に返上?献上されたもので、その後しばらくは八戸から遠野に移った八戸家中では、盛岡に貸していたもので、いずれ返還して貰うものと思っていたようです。

 八戸上総は、遠野南部家(八戸家)分家の附馬牛八戸家第6代義覚公(よしさと)後に篤義公。
 附馬牛八戸家は遠野南部第2代義長公の弟、義也公を分家と成した家であるが、はじめ本家から附馬牛村、東禅寺村、平館村(現八幡平市)の2千石であったが、後に盛岡南部家、遠野南部家との知行地間のやり取りで1千石は本家預かり、徐々に加増を受け1千5百石余となる。
 遠野南部家分家ながらも、盛岡南部高知格に据えられ、歴代は加判役(家老)となり藩政に参与している。



 ということで、長くなりそうなので、続きはまたの機会に・・・・

 このことは記録等によるものではなく遠野で語られていただろう口伝での内容であることを申し添えます。
 真意はよく調べておりません、あくまでも「遠野南部家物語・吉田政吉氏 著」からの引用及び参考とし、私なりに少し資料等から付け加えた内容であることもさらに申し添えます。

 さて、続きはいかに・・・・笑


 我家から附馬牛方面





おまけ

またまた盛岡冷麺



 今回は、2番目に食べる機会が多い、や○な〇やの冷麺。
 スープはバッチグー、甘めのスープですが、しっかりとコクがあって好きな味です。
 ちょっと辛味で入れるキムチ類が酸っぱいかな・・・?・・・でも個人的には好きな盛岡冷麺です。

 で・・・


・・・・殲滅・・・笑



 もうひとつ・・・

 14日、15日遠野祭り、遠野郷八幡宮祭礼での駒木鹿踊への参加が危ぶまれていた長男が今週より練習に合流、両日共に参加できることになりました。

 小生は14日は勤務のため、祭りを観ることは叶いません・・・涙・・・パレードでの南部囃子、昼夜にわたってカメラ撮影をしたいがここ数年の願いですが、なかなか叶えることができません。

 八幡宮での馬場めぐりでは、地元しし踊りについて歩かなければならず、地元の出番が終わればそのまま移動ということで、こちらもなかなか上手くいきませんね。

 いずれ15日、八幡宮若しくは途中の沿道でお会いしましょう・・・駒木鹿踊の引率をしておりますので・・・・。


 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 南部火消 | トップ | 伝・八戸上総 弐 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史関連コラム?」カテゴリの最新記事