「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

伝・八戸上総 弐

2008-09-11 19:47:41 | 歴史関連コラム?
 前回の続きでのエントリー・・・・

 八戸上総の本領地である附馬牛町の一部、本日の模様・・・。

早池峰山・・・松崎町駒木から


火渡石碑群



 〇伝・田名部献上と御誓文呑込み事件・八戸上総 弐

 南部藩主、南部利雄公の嫡子、利謹公は幕閣要人と親交があり、その中で幕府に対して功績ある行い等があれば外様から譜代となり、さらに幕政に参画することも夢ではない・・・というニュアンスの内容を聞き及び、藩領である田名部(現青森県むつ市・下北半島)の献上、さらに南部10万石から20万石への格上げ、そして若年寄、老中に将来は任じられて幕府の政務に参画したいという御誓文を幕閣の一人に託したとされます。

 このことを知った家臣達は上へ下への大騒ぎとなり、連日の重臣達の協議もまとまらない有様、結局は事態を重くみた藩主利雄公の裁量で、嫡子利謹公は江戸から盛岡に送られ、しかも幽閉されるという局面となった。


 公文書ではないものの、御誓文という形で幕閣要人に差し出された文書、当然ながら他の幕閣達にもその内容は伝えられたものと思われますが、盛岡南部家の嫡子が国許へ送られ、廃嫡になろうとも田名部献上の事は予てから企図するところでもあり、ましてや諸侯の嫡子で官位まで持つ者が約束した事実には相違なく、早速ながら盛岡へ然るべき藩老の江戸表への出向を命じる内容が届けられたといいます。

 論議の結果、八戸上総が選任され江戸へ出向くことになりました。

 八戸上総は遠野南部家(八戸家)の分家、附馬牛八戸家の当主でありましたが、兄の八戸義顔は分家から本家である遠野を継承した殿様でもあり、これにより附馬牛八戸家の当主となっておりました。
 ちなみに遠野南部家(八戸氏)を大八戸氏、附馬牛八戸家を小八戸氏と称する場合もあります。


 八戸上総が江戸に着くと間もなく老中より登城の命が下り、居並ぶ幕閣からは、「主人、信濃守よりの願いにより田名部献上の願いのこと許す・・・早速御受書を差出し、引き渡しの手配とするよう・・・」と申し渡された。

 八戸上総は、ある程度の申し開きを行い、食い下がったと伝えられます。
 幕閣は、利謹からの御誓文を取り出して、上総へ見せたといいますが、上総は確かめたいということで、手に取ると、何を思ったか、誓書を手で丸めて呑み込んでしまったという・・・・。

 驚く幕閣達・・・ほとんどは怒ったと思えば呆れ返ったり、話にならないという雰囲気、それでも公の場での論議中のお墨付きを呑み込むという出来事で、最後は、一同怒りが込み上げ、いかなる処罰でも飽き足らない・・・という態度となるも、上総はしからばこの場で腹を切り、御誓文を取り出してお返ししましょうと・・・今まさに切腹もしかねない状況となり、ここは一同で上総をなだめて後日の処分とする旨が言い渡されたようです。

 さてその結果は・・・・「八戸上総なるもの、その行儀いささか不調法であるも、その志に免じてお咎めなし」


 伝えられる内容では、田名部は遠野南部家領で盛岡本家が勝手に献上を約束して、今度はその対処は遠野で行えという理不尽さ、上総は家臣とはいえ同列の家の所領を勝手に献上するといったこと、本家盛岡とて勝手はできない旨を幕閣に訴えたのだろうとしている。

 いずれ、八戸上総は江戸で評判になり、各大名家からは何かの行事に頻繁に招かれ、人気者となったと伝えられ、そのまま江戸勤めのまま彼の地で逝去したといわれます。


 附馬牛八戸氏本貫地・・・附馬牛町片岸



 

附馬牛小学校付近に屋敷と家臣団の家屋が居並んであったと伝えられます。



 ○ 真相は・・・

 今まで記した内容は、物語風といいますか、八戸家と田名部という結びつきが長らく尾をひく流れの中で成立という雰囲気でもあります。
 
 八戸時代の八戸領田名部、清心尼公が田名部を叔父である太守南部利直公に譲り渡したのは史実であるも、遠野の人々は近年まで盛岡南部へ貸していたと思っていた内容も語られます。
 現に私が参考とする「遠野南部家物語」吉田政吉 著 の中でも随所にその内容を伝える伝承が登場しております。
 本家盛岡といえども本来の遠野八戸家の所領に関して、ことに田名部に関しては根強くその考えが根底にあったものと推測され、このような物語風の言い伝えとなったものではないでしょうか。

 他に「太平東国堅秘録」という書物では、江戸城にて南部利敬と二本松藩主、丹羽左京大夫(10万石)と煙草盆のことから争いとなり、利敬は恥辱を受ける。
 依って丹羽と同部屋であることを嫌い、 回避の方策は15万石への格上げと位階昇進であるの思いを募らせ、若年寄堀田摂津守が、松前視察の帰り盛岡へ立ち寄った折、その宿に訪ね、田名部五千石を条件に願の趣旨を申し出る・・・・・ここでも八戸美濃という遠野南部家分家に関わる人物が登場し、結果は書付を呑み込むという所業に至り、最後は忠臣として称賛される。

 これも田名部献上に関係し、さらに南部藩の格上げ問題へと発展する内容であるが、読物の世界と歴史家の間では定説であるといわれる。

 いずれ、記録よれば八戸美濃はこの事件が語られる時代に家老という職には任じられていないという見解もあって、またこのことに関する研究成果もある程度行われ、遠野で語られる言い伝えは、物語という範疇であろうという結論付となると思います。


 史実として田名部献上は立ち消えとなりましたが、盛岡南部藩の20万石格上げは南部利敬時代に行われ、これに関しても実は藩全体で望んでのことという見解もあるようです。

 近世関連は資料も割と残され、素人史家でもある程度閲覧できる環境はありますが、その分、妄想や推測が入り込めない雰囲気もあって、私的にはポロが出そうであまり手を出したくないが本音です・・・汗

 よく意味が伝わらない内容となりましたが、これに懲りずに今後もお付き合い願います。


 附馬牛町片岸集落の傍らを流れる猿ヶ石川

 
 まさに清流


 そして・・・

 某ウラワンの青年が自ブログで萌えるという・・・ばぁさま

 少し附馬牛の「ばぁさま」にしては上品かな・・・謝・・・汗


 花輪にて





 祭り近し・・・

 昨夜、しし踊りでの「かんながら」が配布された。
 早速点検を兼ねて新しいものを装着する。




 付け替え完了



 しし頭・・・駒木鹿踊


 長男が被るしし頭・・・
 しし二年目、まだまだ踊りの方は初級レベルですが、14日、15日は画像のしし頭に青色の垂幕は「元祖角助・遠州掛川」中央は九曜紋が染め抜かれた装束ですので、見かけたら「虎猫の息子がんばれ」とでもお声がけください。・・・笑
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8 コメント

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八戸上総 (ひろゆ)
2008-09-11 23:13:14
2回に亘る南部歴史話し、読みいってしまいました!

現代でいうと、知事から国会議員に鞍替えすることかな?(違うか!w)
利謹公の気持ちってワカルような気がします。
幼い頃より、父のお供で江戸城内に立ち入ることが多かったと思いますが、
その時、今をトキメク幕閣達に憧れみたいなモノを感じてしまったのかな?
(将軍家への忠誠心みたいなものが噴出してしまったのかも・・・)

八戸上総事件・・・伊達政宗公の「百万石の御墨付」を焼いてしまった井伊直孝の話を思い出しました(w

ばっちゃ写真・・・今後のライフワークの一つになりました(w

息子さんの御健闘をココロよりお祈りいたします。
頑張れ!僕はオマクとなって現地で・・・(w
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呑み込み事件 (さごみの木)
2008-09-12 23:14:49
いつだったか、片岸の殿様について、年老いた父は熱く語りましたよ…(爆!)
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南部家話 (とらねこ)
2008-09-13 10:20:43
ひろゆさん
つたない歴史物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。
この話は作り話的要素が多く入り込んでいるものと思いますし、盛岡南部の家臣として甘んじていた遠野南部の負け惜しみみたいなものが内在しているものだったと思ってます。

南部家関連を専門に研究される先生方には軽く一蹴される内容ではありますが、それでも何処か信じてみたいみたいな思いも込み上げるものでもあります。

東北では伊達家が全国区、しかし南部もなかなか侮れない、そして謎の歴史をたどっていることもあって、興味深いですよ・・・是非にこちらも今後の研究課題としてはいかがでしょうか?
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附馬牛の殿様 (とらねこ)
2008-09-13 10:23:53
さごみの木さん
片岸の殿様話、私も聞いてみたいですね。
明治維新後は片岸に本格的に住まいしていたようですが、そのご末裔は釜石にお住まいとか?

附馬牛は遠野では奥深くというイメージはありますが、昔は文化的にそして軍事的にも要衝だったことが伺われますね。
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喉越し (yamaneko)
2008-09-13 17:08:50
証文というからには、それなりの大きさがあったはず。。。それを飲み込むのは、さぞかし喉越しにキレがあったはず(w

しかし、暴挙が忠臣に変化するあたり、江戸時代の平和を垣間見る気がします。
もう国盗りも謀反も起こらないという安心感からくる思考実験みたいな面が伺える。。。といったら、うがち過ぎですかね(w

なんか、忠臣蔵の一件を彷彿とさせるエピソードなのです。
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管理職はつらいよ (残さん)
2008-09-13 18:42:52
食べちゃったり(八戸上総)、焼いちゃったり(伊達政宗の百万石のお墨付きを焼いた井伊の
殿様)。トップの起こした騒動の火消し役が中間管理職・・時代が変わっても、ああっ辛いよ。
附馬牛の殿様の子孫は釜石にお住まい・・→初めて知りました。八戸姓は非常に珍しいです。
因みに、高校の恩師に家老の末裔もいた(辛頼母とか?)、楢山家の傍系?も同級生にいました。世の中狭い。
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お気をつけて (とらねこ)
2008-09-13 21:34:35
yamanekoさん
証文、味はあったのかな?・・・笑・・・喉ごしどころではなく、ゲロ飲みだったことでしょう・・・笑

さてお祭りですね、お気をつけていらしてください。
15日八幡様でお会いしましょう・・・。
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南部姓 (とらねこ)
2008-09-13 21:37:14
残さん
切腹とかでなくてよかったと思います・・・。

ところで小八戸氏、維新後は附馬牛に住まいして、その後、明治30年代に南部姓となって釜石へ・・・おそらく南部姓を名乗っていると思いますが、今現在のことは調べてませんので不明です。
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