経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

山河と街を、滅ぼすなかれ

2008年06月19日 | Weblog
事業の存亡は消費者の選択如何で決定される。

結果的に消費者から選ばれない企業が消えていく。
その結果、空き店舗や空き事務所などが増加。
それで土地価格や賃貸料が下がる。

下がれば、「ならばお店を出そう」という人が出てくる。
資本主義における需要と供給の原則である。

この原則が機能しないとしたら、どうなるか。

共産主義における理論を餡(あん)として、
資本主義の皮で包み込んだ、「おまんじゅう」をイメージして欲しい。

この餡が苦ければだが、そうではない。
餡は、皮より甘くて美味いから、歓迎される。
餡には、砂糖がタップリ。
毎日、美味しい美味しいと食べ続け、
やがて糖尿病となる。

これが保護政策の怖さだ。


商店街における空き店舗が出たという事実には2つの側面がある。

1に、空き店舗が増えた。次は俺の店かも。困ったなぁ。
2に、資本主義国家として正常な新陳代謝が機能している。良かったなぁ

ものを見るときは、常にこうした両面から見なければならない。

だが1の見方に私たちは囚われ、囚われさせられている。

商店街の集まりで、
「この商店街は資本主義が機能して空き店舗が多い。よろしかったですなぁ」。
「これは新陳代謝が機能していることで、健康的で良いことですぞ」。
と、私が言ったとする。(事実、言ってきたのだが)。
私は、この仕事からたたき出されることになる。

人は、とかく自分を被害者に置きたがる。
被害者は、救済されなければならない。
先生方が動き出し、官僚を使って、票のためにも動き出す。
それらは、国家百年の大計とはかけ離れたもの。
打ち出される対策は、保護政策。救済政策。

新陳代謝が機能してこそ街に、人体に、
流動性が生まれ、活気がでる。
活気とは、生きる活力のことだ。

このことを、阻害することは、命取りにもなりかねない。
本質的問題に目を向けず、本当の対策を無視する。
それで、林業はどうなった。
農業は、どうなった。
商店街は、どうなった。

山も田畑も、街も、否そこに住む人々も。
昔、杜甫は、「国、破れて、山河在り」
と詠った。

だが私は、今、
「山河と街が破れて国滅び」と、詠いたい。

そして、国滅びて、高級官僚在り」と、蛇足したい。

消防車は、その稼働率をもって云々されるものではない。
消防車が稼働しなくても良い地域造りこそ、本来の対策なのだ。

空き店舗を活用することは、一過性的対策が本来ではない。
真の対策は、街を構成するお店がそれぞれ新陳代謝、
「血液さらさら、流動化」を計ること。

虫歯や歯周病で、痛む歯を抜くことが、歯の治療ではない。
そうした歯抜けが出ない歯茎、あごを構築する。
これが本来の歯医者の仕事であろう。

かって20年ほど前に、高松の丸亀商店街でお伺いした折、聞いた話。
、今でも忘れない。
現明石専務理事だったか。お茶の亀屋の尾碕さんだったか。

ここの商店街は、空き店舗が滅多に出ません。
それでもこの街に出店したいと、希望者が順番待ちなのです。

本当の行列の出来るラーメン屋は、これだ。
ところがほとんどは、行列が出来るように、売り手側が仕掛けている。
行列を作っている。

表現の違いがあっても、同じことじゃないか、
という意見があるかも。

先回りして答えておきたい。
それは断固違う、あなたはわかっていない、と。

まず主語、主体が違う。
次に、目的が違う。

購買あまたの店では、売るシカケ、対策は不要だ。
どうしたら、そんなお店にもっていけるか。
これが目的。

空き店舗がでるのを行列して待つ出店希望者
そうした商店街づくりに、空き店舗対策は不要だ。

理想論と笑っていい。
だがその理想に向かって歩を進める。
それが商人の夢、ロマン、行動の本来ではないのか。
子や孫の夢を、理想論と笑う、親やジジババはいまい。

街や企業には、どうだろう。
         *

「山河と街、滅ぼすなかれ」

と、夢と理想の具現を目指す。

そうした街、そうした商人を訪ねての旅。
それが私の夢、理想、そして仕事である。