経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

それ、対応?

2008年06月18日 | Weblog
時流は、時が流れる、と書く。

世は、変動あうるものと、変動しないもの。
この2つで構成されている。

そして、この2つを見ている「私」がいる。

この「私」は、生まれ死ぬ存在である。
だから、当然、揺らぎ、変化する存在である。

たとえば、「私は、正しい」ということ。
これは変化する存在である「私」を通してのこと。

右に進む車から、停まっている車を見る。
と、荒れ不思議。これが左に動いて見える如し。

その変化しないものが変化してみえることになる。
かくして、「私」からみた、世のすべては変化して見えることになる。
ここに、誤解が生まれる。

「私」は、誤解と言うが、それは相手から見たら正解。
誤解への対応は、「私」から見て、そして「相手」からも見ること。
これが対応である。

時が流れれば、これまで良しとしたものが、良しとしなくなる。
あり得る。あることだ。

だから時流に合わすことができないものは、淘汰する。
淘汰される、と被害者へもっていってはいけない。

淘汰がいやなら、対応する方向に持っていく。
あくまで主体を「私」に置くのである。
そうすることが、対応だ。

商店街に空き店舗があるということは、2つの側面がある。
1に、対応出来なかったお店が、以前は存在していたという側面
2に、他の店はちゃんと対応して生き残っている、という証の側面、

この両面がある。
だから、その片面だけを見て、商店街ダメ論は、公平ではない。
ましてやその存在意義を否定するという論は暴論である。

生き残っているお店がある。
その事実を、しかとみることだ。
ダイエーは消えたが、近くのばあちゃんのお店は、存在している。
消えたダイエーを見ても、残っているばあちゃんのお店を無視する。
これではいけないと、そう指摘しているのだ。


そもそも、変化の主体は何か。
そして変化の内容は何か。
こうしたものを掴めなければ、対応しようがない。
たとえば、「売れなくなった」という。
これは消費者が買わなくなったということである。

また、どの店でも売れなくなったということではなく、
その店で買わなくなったことを意味する。

あるいは、全部が売れないのではなく、
売れている商品もある。
が、売れなくなった商品もある。

このようにその理由が、
 個別問題か普遍的問題か、
 原因は特殊か、普遍性があるものか、

といったように詰めていく。

その上で、その理由なり原因を除去する。
そして、買ってもらえる理由、原因と入れ替える。
これが対応である。

念押ししておきたいが、ここで「売る」ことは、対策ではないのだ。
売れないものを売ることではなく、購買してもらえる手立てを講じる。
これが対応だ。

それは、そもそも売り上げは、購買の結果である。
その購買の主体は、消費者であること。
畢竟、事業の成否は消費者の支持で決まる。

この当たり前のことへの認識が乏しい
あるいは誤解している、

つまり、対応とは言っていても、
ほんとうの対応はなされていない。

それでも、生き残っているのだから、
 1に、皆さん、幸運だ、ということ。
 2に、これまでの幸運が今後も続くかどうか、ということ
 3に、正しい対応をやったら、間違いなく伸びますよ、

 以上、3点が、私の実感である。

 「その対応、本当の対応?」
と、問いかける。こうした習慣づくりを、ぜひ。