経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

小沢代表辞任を読む

2007年11月05日 | Weblog
棋に千日手というのがある。局面の行き詰まりで、うっかり動けば、たちまち敗退に追い込まれる。またこうした局面では、先に動いた方が不利になる。それがわかっているから双方動けない。だから双方、1つのコマを上下させるしかない。こうした状況がいつまでもつづくから、千日手という。

 我慢が出来ずというか、この場合は重大な決意、あるいは譲歩を覚悟して、福田さんが、先に動いた。国の総理大臣が動いたのだから、そうとうの覚悟とある予感を持って小沢さんも対応した。 

 この場合、二人の思いは共通している。「現状打開を図らねば、日本は孤立化する。これを相互の妥協をもって、避けたい。打開したい」、ということだ。これを戦略の一致という。戦略が一致すれば、それ以外のことはすべて戦術だ。このことが、戦略を本当にわかっていない人が多いから、ことがややこしくなる。

 上の戦略を具現するためには、極端を言えば、解党も1つの戦術になる。戦略の妥協は非難されても良いが、戦術は丁々発止、それが妥協であろうが、なんであろうが、戦略を成就するために、これまた極端をいえば、手段を選ばない。いやいろいろな手段(戦術))を組み合わせて、戦略を具現していくのである。
 
 この戦略のもつ、冷厳さに見える側面(の裏)が理解できないと、「あの人は血も涙もない人だ」といわれることになる。
 昔は、家名を守ることが、武士の家の戦略だったから、そのためには、跡継ぎを殺した親もいたし、跡継ぎに託して、自ら切腹もした。良し悪し、善悪から切り離して見ないと、戦略は見えなくなる。

 是も誤解を招くのだが、信念と戦略の違いは、前者がピュアな部分を持つのに対して、戦略は、清濁を問わず、といったニュアンスを当然として内包している。

 こうしたことが、外からみる小沢さんはわかりにくい、いろりろ誤解、正解される。冷厳、豪腕、複雑・・・と解される理由だと思う。

 人間の好き嫌いでいっているのではない。戦略にそうしたものを少しでも含むと、正しい判断が出来ず、昔なら命取りになりかねない。今の国の状況では、国の危機になりかねない。本来、マスコミやメディアの報道は 人間の好き嫌いで見てはならないものだ。
 その意味で、今のマスコミやメディアは芸能専門メディア並に低俗化している側面が少なくないと、私も思う。

ものの判断を、人間の好き嫌いで言っていてはならない。だから、それ抜きで戦略論の専門家として見れば、小沢さんの行動は、実に明快に理解できるのである。さらにとうてい戦略家とは思えないが、日本の危機を脱するためには、大いなる妥協もやむをえなし、と不利も面子も捨てて、先に動いた福田総理も、この場合、私は高く評価したい。

 それだけの戦略をもち、現状打破で、両者の一致も見たのだから、持ち帰って反対があったにしろ、その反対者を説得してでも、決行するのが、当然なのだ。だがこうした常に苦手というか、投げてしまうところに小沢さんの弱さがあるように思える。だが、ひょっとしたら、そのことさえ戦略成就の伏線かもしれない。

 そこまで読んで、動いているかどうかはわからないが、彼のこれまでのあり方を見ると、自らの戦略を通すために、離党、新党、党の合併といったウルトラ戦術を繰り返し、自らへの非難を厭わなかった人だから、辞任も、またこれからの彼の動きも、戦略具現のためのもの、とみても間違いはない。だが、これは、先の判断。

 ただ、健康という側面からの焦りが、戦術の細やかさを無視し、よりいらだちと強引さが目立つのは周知の通りである。

 諸葛孔明は、自分の死すら、勝つための戦術に使った。三国志にある「死せる孔明、生ける仲達を走らす」。小沢さんが、この域までいけるか。これまた将来(さき)に歴史を振り返ってみるしかない。

1つ、1つの戦術をみての判断では、たいした意味がない。ましてやそうしたものに一喜一憂していては俯瞰的物の見方、考え方はけして出来ない。人の評価は、畢竟、歴史が決める。永い見方、歴史視点、これが戦略家の眼ではないか。

 ともあれ、政権獲得といった私事(些事 戦術)にこだわり、国の大事を守るという大戦略を捨てた民主党は、自らの消滅していく方向へ舵をとってしまった。小沢さんの悔しさが覗える。
 それはかまわないが、この日本をいったいどうするというのだ。国民にとって、無責任ではないか。こうしたことをだれに向かって、国民は叫んだらいいのか。そのことが不安である。