私は、「これから個別対応が、存亡のキーになる」、としきりに申してきました。
それで、よく質問があるのです。
それで、「あなたが買い物するとき、個別に対応されるのと、そうでないのとどっちが良いですか」と、切り返す。個別、とたいていお答えになる。
そして「でも、高く付くからな」と、付け加える方もおられる。
ここからがおもしろいわけです。高く付くのなら、対策は大きく分けて2つある。1つは高くても売れるようにする。もう一つは、高く付かないようにする。そうしたことに挑戦する。それが経営だろうに、と思うのです。ですがそのことには、ほとんど気づかれない。問題があって、対策も見えている。それを解決したら、カネになるビジネスモデルになる、と自社や自分に取り込む、といった考えが希薄なのです。それでカネになるビジネスモデルは、ないかいな、とギンギラギンして探している。それは出来合い。既製品のビジネス・モデル。要するに手間暇は懸けたくない。玉暇がかかるものは眼中にない。経営者こぞって出来合い探し。
これでは、にべもないので、この人手不足時代に、人件費をかけて、手間暇なことを、なぜ、といった疑問について、私は、個別対応が本来だよ、という前提に、以下の5つを考えています。
1-人件費などコストを懸けることで、売上がいっそう上がる、ということになればどうか。さらにより利益も出る、ということを確実にしたらどうか。
2-個別対応は、個々計算では、高くなっても、シグマ(総和)では、安くなることがしばしばある。だから意識的にそうした方向へ持ってゆく。そうすればこれがまた新たな自社、あるいは中小の強み、として加わることになる。
たとえて言えば、全部の魚が、千円札を好むとしてこれまで対応していたのを、鯛は10円玉が好きだ、鰯はゴカイが好きだ。アジはミミズが大好きということがわかれば、
個々対応した方が、トータルのえさ代としては、安上がり、といったケースはいくらでもある。
3-人により、合理化によって、失っていた、夥しい見えない売上、機会損失を取り戻す
ことを見込む。
人を懸けたといった側面を、人件費という側面からのみ見てはいけない。「ここのスナックの自販機を気に入った」といって、スナックに通いだす人は、余りいないと思うのですが、「この子 かわいい」と通い始める客は、私も含めてたくさんいる。
自販機が安上がりかも知れないが、自販機は人と違って、自らの判断で対応したり、愛想を振りまくなど工夫をして、客接点を増やしたり、信頼・親密関係を高めるといったことはまず出来ない。人はこうしたことまで含めて、トータルでみると、人手をかけることが遙かに安上がりにもっていける。
4-出来合い(既製品)より、個別対応、すなわちオーダーメイドは、高く付きます。 出来合いですませればそれでいいし、そレガやりたくてもやれない私みたいな、チビ、小太り、ちんちくりんの体型は、個別対応してもらわなければ、下着で、結婚式に出なければならなくなる。
オーダーメイドの服でも、生地は多量生産されている、ボタンもそう。つまり、両者を組み合わせて、そのお客様にとって、幸せ、喜ばれる状態を創って、あげられるか、ということが、私は個別対応の思想だと思うのです。
これは、家庭でお母さんが創ってくれる夕食と、出来合いの総菜の取り合わせの夕食との違い。
幼いときから、鶏が嫌いな私たった一人のために、母は個別対応してくれ、私だけ鶏ではなく、私の大好きな冷や奴にしてくれました。これは母の愛。でも手間暇をかかるが、材料代は豆腐が安い。それに私のご機嫌も良くなる。こうしたこともコストに含めれば、母のコスト的判断は、正しかった、といったことは、大人になり計算高くなった私の解で、母はしていないと思うのです。
私たちも、個別対応を理想に於いて働くことの前提に、こうした「愛」がある、それが出来るのが人、それを仕事にしている商人の自分もまた、幸せなんだ、と思うのです。
5-どうしたら、この人に喜んでいただけるか、アレコレ考えることは楽しいし、それをやって相手が喜んでくれたら、これまた嬉しい。こうしたものが仕事の本来。個別対応こそ対応の本来、私はそう思いっている。
ですから、これはコストとか売上云々とは、別の概念かも、といわれたら、私は否定しない。そうした経営こそ、本来ではないか、と頭の片隅で考えている。
「考える」というその概念の中には、「計算」が含まれる。この計算は、貸借対照表ではなく損得計算書の方。儲かるか、損か、といってよい。それを判断の基準において、結局たいていは、やらない。やらないから実際のところはどうか、という真の解は得られない。
それで、ここは計算を捨てて、「ええい」と実践、実行すること。それで真の解がでて、それが増収増益、ということになると、どんどん広がる。その「ええい」を自分でやれる人が真の経営者、人がうまくいったのをみて、二番煎じ、三番煎じするのが並の経営者。
これまでは二番煎じ、三番煎じまで、生きられたが、最近では、消費者は一番煎じ以外は見向きもしなくなってきた。これが巷で言われる、勝ち組と負け組の話。勝ち組以外は価値がない、ということになった。
乱暴な言い回しですが、個別対応といったことは、ええい、と目をつぶってでも飛び込まないと、やれない。やらないから実のところ損なのか、得なのか計れない、といったことはある。
高ですからこそ、やる。うまくいったらシメシメ。どんどん進める。うまくいかなかったら、続けるか、やめるか、そのとき考える。これ経営者。
それを、こう。「それ、やったら間違いなくうまくいくのですか」
それに対して私は、こう。「やってみなければ、わかりません。それにやらない人に答えてもしょうがない。」
それで、よく質問があるのです。
それで、「あなたが買い物するとき、個別に対応されるのと、そうでないのとどっちが良いですか」と、切り返す。個別、とたいていお答えになる。
そして「でも、高く付くからな」と、付け加える方もおられる。
ここからがおもしろいわけです。高く付くのなら、対策は大きく分けて2つある。1つは高くても売れるようにする。もう一つは、高く付かないようにする。そうしたことに挑戦する。それが経営だろうに、と思うのです。ですがそのことには、ほとんど気づかれない。問題があって、対策も見えている。それを解決したら、カネになるビジネスモデルになる、と自社や自分に取り込む、といった考えが希薄なのです。それでカネになるビジネスモデルは、ないかいな、とギンギラギンして探している。それは出来合い。既製品のビジネス・モデル。要するに手間暇は懸けたくない。玉暇がかかるものは眼中にない。経営者こぞって出来合い探し。
これでは、にべもないので、この人手不足時代に、人件費をかけて、手間暇なことを、なぜ、といった疑問について、私は、個別対応が本来だよ、という前提に、以下の5つを考えています。
1-人件費などコストを懸けることで、売上がいっそう上がる、ということになればどうか。さらにより利益も出る、ということを確実にしたらどうか。
2-個別対応は、個々計算では、高くなっても、シグマ(総和)では、安くなることがしばしばある。だから意識的にそうした方向へ持ってゆく。そうすればこれがまた新たな自社、あるいは中小の強み、として加わることになる。
たとえて言えば、全部の魚が、千円札を好むとしてこれまで対応していたのを、鯛は10円玉が好きだ、鰯はゴカイが好きだ。アジはミミズが大好きということがわかれば、
個々対応した方が、トータルのえさ代としては、安上がり、といったケースはいくらでもある。
3-人により、合理化によって、失っていた、夥しい見えない売上、機会損失を取り戻す
ことを見込む。
人を懸けたといった側面を、人件費という側面からのみ見てはいけない。「ここのスナックの自販機を気に入った」といって、スナックに通いだす人は、余りいないと思うのですが、「この子 かわいい」と通い始める客は、私も含めてたくさんいる。
自販機が安上がりかも知れないが、自販機は人と違って、自らの判断で対応したり、愛想を振りまくなど工夫をして、客接点を増やしたり、信頼・親密関係を高めるといったことはまず出来ない。人はこうしたことまで含めて、トータルでみると、人手をかけることが遙かに安上がりにもっていける。
4-出来合い(既製品)より、個別対応、すなわちオーダーメイドは、高く付きます。 出来合いですませればそれでいいし、そレガやりたくてもやれない私みたいな、チビ、小太り、ちんちくりんの体型は、個別対応してもらわなければ、下着で、結婚式に出なければならなくなる。
オーダーメイドの服でも、生地は多量生産されている、ボタンもそう。つまり、両者を組み合わせて、そのお客様にとって、幸せ、喜ばれる状態を創って、あげられるか、ということが、私は個別対応の思想だと思うのです。
これは、家庭でお母さんが創ってくれる夕食と、出来合いの総菜の取り合わせの夕食との違い。
幼いときから、鶏が嫌いな私たった一人のために、母は個別対応してくれ、私だけ鶏ではなく、私の大好きな冷や奴にしてくれました。これは母の愛。でも手間暇をかかるが、材料代は豆腐が安い。それに私のご機嫌も良くなる。こうしたこともコストに含めれば、母のコスト的判断は、正しかった、といったことは、大人になり計算高くなった私の解で、母はしていないと思うのです。
私たちも、個別対応を理想に於いて働くことの前提に、こうした「愛」がある、それが出来るのが人、それを仕事にしている商人の自分もまた、幸せなんだ、と思うのです。
5-どうしたら、この人に喜んでいただけるか、アレコレ考えることは楽しいし、それをやって相手が喜んでくれたら、これまた嬉しい。こうしたものが仕事の本来。個別対応こそ対応の本来、私はそう思いっている。
ですから、これはコストとか売上云々とは、別の概念かも、といわれたら、私は否定しない。そうした経営こそ、本来ではないか、と頭の片隅で考えている。
「考える」というその概念の中には、「計算」が含まれる。この計算は、貸借対照表ではなく損得計算書の方。儲かるか、損か、といってよい。それを判断の基準において、結局たいていは、やらない。やらないから実際のところはどうか、という真の解は得られない。
それで、ここは計算を捨てて、「ええい」と実践、実行すること。それで真の解がでて、それが増収増益、ということになると、どんどん広がる。その「ええい」を自分でやれる人が真の経営者、人がうまくいったのをみて、二番煎じ、三番煎じするのが並の経営者。
これまでは二番煎じ、三番煎じまで、生きられたが、最近では、消費者は一番煎じ以外は見向きもしなくなってきた。これが巷で言われる、勝ち組と負け組の話。勝ち組以外は価値がない、ということになった。
乱暴な言い回しですが、個別対応といったことは、ええい、と目をつぶってでも飛び込まないと、やれない。やらないから実のところ損なのか、得なのか計れない、といったことはある。
高ですからこそ、やる。うまくいったらシメシメ。どんどん進める。うまくいかなかったら、続けるか、やめるか、そのとき考える。これ経営者。
それを、こう。「それ、やったら間違いなくうまくいくのですか」
それに対して私は、こう。「やってみなければ、わかりません。それにやらない人に答えてもしょうがない。」